第六十二回コラム「日本仏教の歴史 part12

禅を唱える能忍

 

 文治5年(1189)能忍は摂津吹田に三宝寺を建立しました。この寺院は、日本で初めての禅専門の道場でした。寺院で修行している僧たちはいつも座っているため、村人から本当にお坊さんなのかと疑われていました。ある村人が能忍に「なぜ都で流行っている念仏を唱えているのですか?」と質問しました。能忍は「ただ禅をやっているだけで、座って心を鎮め安定させ、自由で豊かな心持ちになっている。お経なんて読めなくてもいいから座っていてはいかがか?」と答えました。その後三宝寺の本堂ではお坊さんに混じって、村人が坐禅をするようになりました。

 あるとき、一人の僧が噂を聞きつけて三宝寺の門を叩きました。その僧は「この寺で禅宗を唱導しているようですが、師匠はどなたですか?」と質問されました。能忍は独自で修行して行なっていたため、「師はいない」と答えました。するとその僧は「さとりを証明する師も持たない禅は禅とは言えない」と帰っていきました。このことがきっかけで、能忍は師を持つことが必要だと考え弟子の二人に自身が書いたさとりの境地の書を持たせ、宋の徳光禅師に届けさせることにしました。

 二人の弟子はさっそく渡海し、宋に入り徳光禅師がいる浙江省にある寧波府の阿育王山に向かいました。弟子たちは阿育王山に着くと、臨済宗楊岐派の徳光禅師に面会を求めました。弟子たちは徳光禅師に能忍が書いた書を渡し、「日本に禅宗を広めたいため、印可をいただきたい」と伝え、徳光禅師は能忍のさとりについて書かれた書を読み始めました。読み終えると、「能忍禅師のさとりは本物である」と言い、印可をいただきました。

 弟子たちは急ぎ日本に帰り、能忍に印可証明を徳光禅師から頂いたことを伝えると、能忍は喜び、さっそく達磨宗の看板をかかげ、ここに印可を受けた正真正銘の禅宗が誕生しました。以来、三宝寺は以前にもまして門弟で賑わいました。

 

 栄西の禅

 

 建久2年(1191)栄西は再度の入宋より帰国しました。懐敞禅師から授けられた本場の禅を広げようと、栄西は平戸に着くとまず寺の門戸を開きました。本場中国から持ち帰った禅の噂を聞きつけ、人々は栄西のもとに数多く集まりました。栄西は禅院ではただ座禅するだけではなく、本場で見聞きした禅寺の生活をまねました。門弟たちは時間を区切って座禅し、ときには掃除をしたり台所にたちました。

 栄西は禅はただ坐禅をするだけではダメだと考え、戒律に従いながら座禅に励む必要があると門弟たちに伝えました。栄西はその後、平戸の禅院の成功に続いて筑前・筑後・肥前など九州各地に禅寺を開き布教に努めました。

 いっぽう肥前と筑前の境界をなす脊振山に宋より請来した茶種を植えました。栄西は「栄西の禅は日本で唯一の中国請来の禅で、仏本の根本は栄西の禅である」と布教していましたが、建久5年(1194)栄西は京都にのぼって小さな禅院を開き禅を唱えていました。ところがこれに異議を唱えるものがいました。それは京都にのぼっていた能忍でした。

 栄西は能忍の達磨宗と競争するように必死に弘法に努め、能忍もそれに応じて布教に努めたため禅の人気が京都中に広まりました。

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