第八十一回コラム「仏教用語について part23」

行脚(あんぎゃ)

 

 行脚とは、仏教の僧侶が修行のために諸国を歩き回るという意味の言葉です。読み方は「あんぎゃ」。本来は仏教の修行のことを指す言葉でしたが、次第に浸透し「お詫び行脚の毎日だった」など、何かの目的のために地方を練り歩くことも指すようになりました。

 仏教僧は修行や布教のために徒歩で各地を回っていました。このように各地を歩き回る修行僧のことを「行脚僧(あんぎゃそう)」と呼びました。「遊行(ゆぎょう)」や「遊方(ゆほう)」とも言います。または行雲流水にたとえて「雲水(うんすい)」と呼びます。これが語源となり、現在では広く一般に各地を巡り歩くことも「行脚」と言うようになりました。

 「行脚」の重要な点は、徒歩で各地を巡るというところです。ある一か所だけに行ったり、バスツアーや車や自転車などで各地を巡っても行脚とは言いません。

 

一味(いちみ)

 

 一味とは「盗賊の一味」など「悪事を企てる場合に用いる」など少し物騒な仲間を表しています。他にも、そばなどにかける一味唐辛子の一味は、一つの味という意味で現代では使われています。

 仏教では、ブッダの説法が一味であると言われています。それは、時や場所、相手によって多様な説かれ方をしていても、その本旨が変わらないことを意味しています。ブッダは、人を生まれや能力や経歴によって分け隔てすることは決してありませんでした。それぞれが調和し合いながら、輝いて人生を尽くしていく道を説き続け、それはブッダが、誰もが何ものにも代えられないかけがえのない存在であることを見抜いていたからです。

 また「一味」は、「(海水がどこにあっても塩からく同じ味がするように)現象や本質は、無差別平等であること。」をいいました。それはちょうど海水が全て同一の塩味であるのに例えたものです。インドのバラモン教でも解脱の境地を「一味性」と表現することもあるようです。

看病(かんびょう)

 

 「看病」とは現代日本語では、病人の面倒を見ることを指す言葉として使われています。この言葉も仏教からきた言葉です。

 病人を看護することは仏教では重要な行いだったそうです。ちなみにこの「看」という字は「手で触れて、目で見る」と書きます。また、医療が発達していなかった頃の治療は、手を病人の患部に当てて直していたそうです。治療のことを「手当て」と言うように人の手には強いパワーが秘められているのかもしれません。

 お坊さんの呼び方の一つに「看病者」というものがあります。看病をする人いうことです。この場合の病気とは何でしょうか。それは「生老病死」の苦しみです。その苦しみを抱えている人を病人に喩え、お坊さんは病人のお世話をし、苦しみを和らげ、病気を治す人であるということです。お坊さんが処方する薬は、仏教の教えです。その薬を服用するということは、仏教の教えを理解し、それを行ずることです。薬を服用した病人の苦痛は和らぎ、病気は治っていきます。

 こうしてみると、お坊さんの呼び名のひとつである「看病者」は、病人のお世話だけではなく、病気を治すお医者さんの役割も含まれているようです。お釈迦様のことを、医者の王様「医王」と呼ぶ所以です。

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