第六十三回コラム「日本仏教の歴史 part13」

禅の停止

 

 禅の教えがどんどん広がっていくことを恐れた、念仏を唱えていた僧たちは、「能忍と栄西は比叡山に断りなく達磨宗を立て、人心をたぶらかしている」ということを天台座主に申告しました。これを重く見た天台座主は禅宗布教の停止を言い渡しました。それと同時に比叡山の僧兵たちが都に現れ、栄西や能忍に脅しをかけました。

 栄西は比叡山の停止に対して正面から応えようと、自分の禅の考えを書き留め、建久9年に栄西は「興禅護国論」を著しました。栄西は「禅宗は仏教の究極の教えである。この禅宗においては戒律が師である。しっかりと戒律を保っていれば必ず知恵が得られる」と述べるとともに、達磨宗とは全く違う教えだと訴え、同年に浄土宗を開きました。法然もまた「選択本願念仏集」を選して、浄土仏教の基本教理を明らかにしました。

 正治元年(1199)栄西は比叡山の圧力を避けるように鎌倉を下向しました。鎌倉の都は源頼朝の死に何処と無く沈んでいるようでした。

 入宋上人栄西の名は地方の都でも有名で、鎌倉を下向したある日、北条政子に呼ばれました。栄西は源頼朝の一周忌法要を頼まれ、導師を厳粛に勤め上げました。このことをきっかけに北条政子は栄西に寿福寺を建立する旨を伝えました。その後壮大な寿福寺が完成し、北条政子を迎えて開山式が行われました。

 建仁2年(1202)栄西は幕府の権力を背景に京都の鴨川べりに建仁寺を起工しました。やがて大伽藍の全てが完成し、盛大な建仁寺開山式が行われました。ここに日本臨済宗は確立されました。

 

 入宋の旅

 

 「仏教では人は誰もが仏性を持ち、本来仏であるという教えがある。ならばなぜ改めて発心し修行する必要があるのだろうか。」比叡山には道元のこの疑問に対して答えてくれる人はいませんでした。そして道元はわずか3年で比叡山を後にし、建仁寺の門をたたきました。建仁寺で南宋の禅に初めて接した道元は、栄西の一番弟子といわれる明全について学びました。

 貞応2年(122324歳の時に道元は明全と共に入宋の旅に出ました。二人は博多港を出発し、民州(寧州)へ着くと、早速天童山へ向かいました。道元はここで座禅を学び、さらに諸寺を歴訪して修行を重ねました。

 嘉禄元年(1225)道元は再び天童山に帰り、如浄禅師に相見しました。道元は兼ねてからの疑問である「仏教では人は誰もが仏性を持ち、本来仏であるという教えがある。ならばなぜ改めて発心し修行する必要があるのだろうか。」を知るため、如浄禅師のもとで朝昼晩休むことなく坐禅を重ねました。ある日、道元はついにさとりをを開き、如浄禅師もこれを認めて嗣書を与ると、帰国する道元に相伝の袈裟や秘蔵の経典・肖像などを贈りました。

 嘉禄3年(1227)道元は入宋中に亡くなった明全の遺骨を抱いて帰国し、ひとまず建仁寺に入りました。道元は建仁寺で座禅のあいまに「普勧座禅儀」を執筆しました。

 一方で知恩院では法然の墓所が比叡山僧徒によって破壊され、再び専修念仏が禁止されました(嘉禄の法難)。道元はこの騒動で比叡山の圧迫をひしひしと感じました。

 寛喜2年(1230)道元は京都深草の極楽寺の別院である安養院に移り住んでいました。翌年道元は座禅に励みながら、「正法眼蔵」の第一にあたる「弁道話」を書き終えました。道元の座禅の厳しい姿に接した門弟は口伝えで仲間をどんどん増やしていきました。

 天福元年(1233)道元は同地に興聖寺を開きました。その3年後に道元はついに興聖寺に僧堂を開きました。翌年には「典座教訓」「出家授戒作法」を著して僧堂役位の重要性や出家の意義を教えました。

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