第六十一回コラム「日本仏教の歴史 part11」

一遍の念仏

 

 延応元年(1239)親鸞が関東の地を離れ帰京して数年後、伊予国(愛媛県)道後に一人の男の子が生まれました。名は一遍(時宗の開祖)でした。一遍は3人の弟子を従え遊行賦算の旅にと伊予を立ちました。賦算とは念仏の算(ふだ)を賦(くばる)という意味で、一遍は往生の証としてこの念仏札を与えていました。

 ある日、熊野(和歌山県)で僧の集団に出会いました。一遍はその集団に「信を起こして阿弥陀仏の名を称えよ」と伝え、念仏札を渡そうとしました。しかし僧たちは「信を起こしてと言われても、私たちにはその信じる気持ちが起こらない」と言いました。一遍は念仏札を渡そうとし、僧の集団は信心が起こらないから念仏を唱えることはできないと拒否したため、押し問答が起こりました。

 この騒動により一遍は、どのように布教をしたらいいのかわからなくなり、夜を徹して参籠していました。すると一遍の前に熊野権現が現れ、

 「念仏を勧めている聖よ、なぜ念仏を誤った方法で勧めているのか。信を起こすとか起こさぬとか、なんでそのようなことが必要なのか。信も不信もない。浄も不浄もない。あるのは一念。南無阿弥陀仏のみ。」とだけ言い姿を消しました。

 一遍は熊野参籠で自分の進むべき道を会得し、以後六十万人往生を目指して諸国を遊行しました。信州佐久の武士の館で念仏中、極楽往生できると民衆が歓喜のあまり踊り始めたのが、踊り念仏の起源と言われています。以来、この踊り念仏は次第に各地に広まっていきました。

 一遍は「称ふれば仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」という歌を残し、正応2年(128951歳で示寂しました。死に先立ち所持していた全ての典籍を焼き捨て、「一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になりはてぬ」という言葉も遺したと言われています。

 

華厳に栂尾の明恵あり

 

 建暦2年(1212)京都の栂尾高山寺に住む明恵上人高弁は「さい邪輪」を書いて法然の「選択本願念仏集」を批判しました。この年1月に法然は80歳で示寂し、その死とともに「選択本願寺念仏集」は開版されました。「選択本願寺念仏集」は法然16歳の時の著作で、念仏の教えをまとめ、その意義を述べたものでした。

 明恵は菩提心がなくても阿弥陀仏を信じて念仏さえしていれば浄土へ往生できるという考えをどうしても認めることができなかったのでした。また、従来の仏教諸宗を群賊だと訴えていると法然が言っていると考えていた明恵は、邪な教えを打ち砕かなければならないとさえ思っていました。

 承久3年(1221)承久の乱が起こって今日の都は戦場と化しました。あるとき、明恵は栂尾に逃げ込んできた乱の敗兵をかくまっていました。そのことが見つかり、かくまった罪で京都の六波羅に連行されてしまいました。明恵は北条泰時から、「なぜ敵兵をかくまうことをしたのか」と尋ねられました。

 明恵は「かくまったわけではありません。仏に救いを求めるものは誰でも助けられる権利があります。」と答えました。北条泰時はそこ言葉を聞いて「華厳宗に栂尾の明恵ありとは聞いていたがさすがだ」と満足し、明恵に帰依するようになりました。

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