第十八回コラム「親鸞の生涯について」

浄土真宗の開祖 親鸞の生涯について

 当時は破戒とされた妻帯を犯し、子をもうけ、生涯で大寺を建立することもなく、ただひたすら万人が救われる道を求めて激動の時代を念仏に生きた親鸞の生涯と信仰の軌跡について今回は説明していきたいと思います。

 1 比叡山を下りるまで

 2 法然のもとでの修行

 3 常陸国~帰洛後の親鸞

 

 1 比叡山を下りるまで

 親鸞は承安三年(1173年)京都に生まれ、父の名は日野有範、母は源氏出身の吉光女だと言われています。親鸞が九歳の時に、のちに天台座主となる慈円のもとで出家しました。当時の世はまさに動乱の時代であって、藤原一族の権力は衰え、変わって武士が台頭し、熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。このような時代の中、親鸞は比叡山に登り、以後二十年間を堂僧(常行三昧堂に住して念仏を行う僧のことで、僧としての身分はそれほど高くない。)として過ごすことになります。

 建仁元年(1201年)に仏の道に入って二十年になる親鸞は、人生の岐路に立たされます。親鸞は真面目に仏道に励んでいましたが、比叡山に住む多くの僧は、「戒を守るのが僧の務めだ。」と言いつつも、接待されて肉料理を食べたり、女性と戯れたりしていました。親鸞は戒を守れない僧を含めて衆生のすべてが救われるような道が仏教で、「出家者ですら戒を守れないのにどうして在家の人間が戒を守れよう。そういう弱い人間でも救われる道を探さなくてはならない。」と思い、このまま出家生活を送っていいものかと考えるようになりました。親鸞は在家仏教の代表者である聖徳太子ゆかりの六角堂で修行することを決意し、比叡山を下り、百日間の参籠を行いました。勇んで比叡山を降りて聖徳太子ゆかりの六角堂に参籠したが、行くべき確かな道を見出せないでいたところ、九十五日目の明け方に親鸞は夢を見ました。その夢では、六角堂の御本尊である救世観音菩薩が「行者宿報説女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」という誓願を広く世間に知らせて欲しいというものでした。この意味は、「行者」とは末法の世を生きねばならない日本の仏教者のことで、「宿報」とは前世でなした行為の報いでわかりやすく言えば生まれついての制約条件のことで、そして「女犯」とは良き伴侶と暮らすこと、つまり妻帯を持つことです。つまり「行者宿報説女犯」とは、「末法の日本の仏教者には様々な制約があり戒律を破らざるをえないような場合もある。」ということで、「我成玉女身被犯」は「救世観音菩薩が女の身に変化してその妻となりましょう。」と言うこと、「一生之間能荘厳」とは、「一生涯良き伴侶となり」、「臨終引導生極楽」とは、「臨終の時には極楽浄土まで案内しましょう。」という意味でした。この夢を見た親鸞は「出家して僧にならなくても阿弥陀仏を唱えれば誰でも極楽浄土に行ける」と説いている法然のもとに行くことを決め、人生の一歩を踏み出すことになりました。

 

 2 法然のもとでの修行

 建仁元年(1201年)親鸞は法然の門に身を投じ、弟子となりました。法然を師と仰ぎ尊崇した親鸞はのちに「歎異抄」の中で、「私にはただ念仏を称えて阿弥陀仏に助けていただくばかりであると法然様に教えをいただいたことを信ずるほかなにもない。念仏を称えれば極楽浄土に生まれることができるのかそれとも地獄に落ちるのか、そういったことには関心を持たぬ。たとえ法然様にだまされて念仏を称えて地獄に堕ちたとしても全く後悔しないであろう。」と語るほどでした。

 法然の説く専修念仏の教えが広まるにつれ従来の仏教からは偏った教えであると非難され、たびたび弾圧嵐にさらされていました。やがてある事件が起きました。建永元年(1206年)に法然の門弟である住蓮と安楽が東山鹿ヶ谷で念仏会を催し、多くの聴衆を集め、その中には後鳥羽上皇の女官である鈴虫と松虫がいました。留守を預かる院の女官たちと共に二人はそのまま発心して出家し尼となったことから、後鳥羽上皇は激怒し、朝廷より念仏禁止の宣旨が下り、法然とその門弟十一人が処罰され、住蓮と安楽は死罪となりました。法然は土佐に流罪となり、親鸞は越後へ流罪が決まり、これが二人の今生の別れとなりました。親鸞は流罪地の越後で越後の豪族の娘と伝わる恵信尼と結婚し、建暦元年(1211年)に息子の信蓮房が誕生し、この年に親鸞は赦免されました。建保二年(1214年)に親鸞は家族と共に越後の国府から関東に向けて出発しました。

 

 3 常陸国~帰洛後の親鸞

 建保五年(1217年)に親鸞は常陸国稲田郷に小さな庵を結び、農民・下級武士・漁師など様々な人々が親鸞の庵を訪れ、しだいに念仏の教えは広がっていきました。親鸞は関東に二十年間滞在していたと言われるが、その間は常陸を中心に精力的に布教活動を展開し、念仏の教えを広めるとともに唯円をはじめ善念や定信など数多くの門弟を育て上げました。また親鸞は人々に念仏を進めるかたわら主著「教行信証」の執筆に専心し、念仏がもっとも優れた教えであることを様々な文献を引きながら論証しており、この最初の原稿が完成したのは元仁元年(1224年)のころと言われています。この年に晩年の親鸞に仕えその死を看取ることとなった末娘の覚信尼が誕生しました。

 文暦二年(1235年)の年に鎌倉幕府は念仏取締令を発令したことにより、親鸞は家族を伴って京に帰洛し、親鸞はまず五条西洞院に居を定め、その後三条富小路などを転々としました。親鸞は主著「教行信証」を推敲するかたわら「浄土和讃」「高僧和讃」などを著しました。この頃東国にて、”どのような悪いことをしても念仏によって救われる”などと、わざと悪事をなして念仏の教えを曲げて伝えるものが現れはじめたのをきっかけに親鸞は息子の善鸞に自分の名代として関東の地で布教するように伝え、善鸞は関東の地で布教に専心しました。やがて関東の門弟たちの手紙で善鸞の活動ぶりが親鸞の耳に入ってきましたが、その手紙には善鸞の不穏な状況を知らせるものと、善鸞が自分だけの僧団を作ろうとしていると書かれていた手紙ばかりでした。建長八年(1256年)ついに親鸞は息子の善鸞に対して義絶状を送り、親子の縁を絶つこととなりました。

 弘長二年(1262年)九十歳の時に、万人が救われる道を求めて激動の時代をただひたすら念仏に生きた浄土真宗の開祖である親鸞が静かに生涯を閉じました。

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