第十一回コラム「お寺の話について」

お寺の歴史と役割

 お寺とは一体なんだろう?今では当たり前に立っているお寺の歴史についてご存知でしょうか。お寺の数は、文化庁が行う「宗教統計調査」によると七万七千二百五十四寺院あると言われています。(平成261231日調査)

  今回はお寺の歴史について見ていきたいと思います。

 1 お寺の歴史(インド)

 2 お寺の歴史(日本)

 3 お寺の構造と伽藍配置

 1 お寺の歴史(インド)

 二千五百年前の仏教の修行僧(比丘)たちは一定不住といって定住することなく暮らすのが原則でした。インドには雨季があり、雨季の三ヶ月間は僧侶は外を歩けません。なぜならこの季節は多くの生き物が生まれてきて地表を這うので迂闊に外を歩くと踏み潰しかねないからです。また雨の中を無理に修行すれば伝染病にかかる恐れもあり、雨季の間は比丘たちは一ヶ所に集まり集団生活をしていました。これを雨安居といい、いわば比丘の集団研修期間でした。

 そんな中お釈迦様がおられた時代(紀元前五~六世紀)マカダ国の首都王舎城は当時インド最大の都市といわれ大いに栄えていました。この都のそばに霊鷲山という山があり、そこでお釈迦様たちは雨安居を過ごそうとされていました。雨季に入ったある日、国王ビンバシャラはお釈迦様と千人の弟子たちが岩棚や岩窟に別れて住み、とても不便な生活をしていることを耳にします。そこで国王は王舎城のすぐ近くの竹林の中に雨露をしのぐための建物を建て、雨安居の時に役立ててもらうために寄進しました。そこは竹林精舎と名付けられました。精舎とはお寺を意味しますが、後世のお寺とは違いはじめは単に雨露を凌ぐ程度のもので、これがお寺の始まりだと言われています。

 またお釈迦様の噂を耳にし、近隣の国であるコーサラ国からシュダツという商人がお釈迦様を訪ね、「コーサラ国でも法を説いてほしい」と懇願し、お釈迦様は沈黙をもってその願いを受け入れます。シュダツはコーサラ国の首都である舎衛城では知らぬ者のない大金持ちであるとともに慈善家であり、いつも孤児や病人、頼る人のいない老人や貧しい人々を助けるので「給孤独長者」と呼ばれ慕われていた人物でした。シュダツはお釈迦様を受け入れる場所を探しており、探し求めていた場所が祗陀太子の園であることを知りました。どうしても園が欲しかったシュダツは太子に懇願します。しかし太子が園を手放す条件として提示したのは「黄金をその園に敷き詰めて買い取る」という無茶なものでしたが、シュダツはこれを喜んで承諾しました。その後シュダツがお釈迦様を受け入れるための精舎を建立するため、黄金を敷き詰めていることを知った太子は園を無償で提供することとなります。こうして二人の寄進によって新たな精舎がつくられ、これを「祇樹給孤独園精舎」つまり祗陀太子の樹園に給孤独長者(シュダツ)が建立した精舎と訳し、略して「祇園精舎」と呼ばれるようになりました。こうして仏教教団の拠点が出来始めていくことになります。

 その後長い伝道の途上でお釈迦様はお亡くなりになると、お釈迦様の遺言により葬儀は在家者たちの手で執り行われ、その遺骨(仏舎利)は八つに分配されました。そしてそれぞれの地で仏舎利を安置した塔(ストゥーパ)が建立され人々の信仰を集めました。これが塔の起源です。

 紀元前三世紀にはアショーカ王が出て、インドのほぼ全土にまたがる大帝国を築き上げたました。アショーカ王は仏教の信者であったため、仏教を広めるために八ヶ所の仏舎利をさらに分骨し八万四千にものぼる仏塔を建立し、これらの仏塔を維持するために荘園も寄進されました。こうして在家者信者による仏教の新しい拠点が登場しました。

 

 2 お寺の歴史(日本)

 紀元五百三十八年に百済から大和の国、欽明天皇の宮に向かう使節がありました。その使節は百済の聖明王の使者で、釈迦如来の仏像と手紙を持参してきました。その手紙には「仏教は世の中で最も優れた教えで儒教よりも尊く奥深いもの、またこの教えはインドより伝わったもので中国や百済でも信奉されているので貴国にも伝える。」というようなことが書かれていました。そこで使者が帰国した後、天皇が宮廷の豪族を集め相談しましたが、仏教に賛成の蘇我稲目氏と反対の物部尾輿氏で意見が割れました。そのため国で祀る前に賛成者である蘇我氏がためしに仏像を祀り拝んで見ることになりました。そこで蘇我氏は、飛鳥の向原の自邸を寺に改め仏像を安置して礼拝します。この向原寺こそが日本最初のお寺でした。

 しかし数年後、疫病が大流行したためお寺は焼かれ仏像は難波の堀江に捨てられました。次の敏逹天皇の代となった頃、蘇我稲目の子である馬子が大臣となると百済から経文を取り寄せたり、本格的なお寺を建てて盛大な式典を開きました。ですがまたしても疫病の大流行があり、再び物部氏の焼き打ちにあいます。

 仏教は禁止されたり許されたりを繰り返し、用明天皇の代に聖徳太子がでて確固たる場を築き、やがて反目しあってきた蘇我氏と物部氏の戦いは物部氏の滅亡によって幕を閉じました。

 これ以降、日本の仏教文化は花開くのです。

 

 3 お寺の構造と伽藍配置

 お寺の主な建物は一般に「七堂伽藍」と呼ばれていて、時代や宗派によって異なります。ここからは七堂伽藍とその役割について説明していきます。

 ①塔  もともとはお釈迦様の遺骨(仏舎利)を納めるための建物で、時代が下って高僧や偉人の遺骨を納めるようにもなりました。これがお墓のルーツでもある。

 ②金堂 本尊を安置する建物で”ほとけ”のきらびやかな世界を表現するために堂内を金色にしたのでこの名がある。

     本堂・仏殿とも呼ばれる。

 ③講堂 説法や経典の講義などが行われる建物で、多くの人が入れるようになっている。

 ④鐘楼 釣鐘が吊るされており、いろんな合図に鐘が撞かれる。

 ⑤経蔵 お経がしまわれている、いわゆるお寺の図書館

 ⑥僧坊 寺院内の僧たちが寝泊りする場所

 ⑦食堂 僧たちが食事をする建物

 このように七つの建物があります。

 ②の金堂になぜ本尊が安置されているかというと、金堂というのはお釈迦様の部屋(香室)に由来しているので、お釈迦様の象徴として本尊がおられるのです。このように塔と金堂はお釈迦様を偲ぶ大切な建物なので伽藍の中心にあります。

 伽藍の配置の形式にも様々なものがあります。代表的なものを説明します。

 ①飛鳥寺式  日本最古の配置形式で、講堂が外に出ていて金堂が三つあるのが特徴

 ②四天王寺式 南大門から講堂まで一直線に並ぶ

 ③川原寺式  回廊が中金堂でつながっている

 ④法隆寺式  日本独自の形式と言われている

 ⑤薬師寺式  塔が二つあるのが特徴

 ⑥東大寺式  塔が外にあるのが特徴

 簡単な説明ですがこれだけの伽藍配置が存在します。

 飛鳥時代から奈良時代にかけてのお寺は国家のためのものであり、庶民が気軽に近づけるものではありませんでした。しかし平安時代中期以降、金堂の前に礼堂が設けられやがて金堂に取り込まれたり、回廊の前面が解放されたりして庶民が本尊に近寄れるようになっていきました。伽藍配置は時代によって変化し、現在では元の形を持たないお寺も多くあります。しかしお寺の本堂には内陣と外陣の区分があり、かつて金堂を中心にして配置された名残りを今に伝えています。

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