第七十回コラム「仏教用語について part12」

演説(えんぜつ)

 

 演説というと、まず思い浮かぶのが、選挙演説でしょうか。自分の主義・主張を大衆に向かって説き聞かせることが、現在使われている演説の意味です。

 演説とは、サンスクリット語のニルデーシャの訳で、仏の教えを説くことを意味します。自分の主義・主張ではなく、仏の真実の法があり、それを説きしめすことが本来の仏教における演説の意味でした。このことから、演説は様々な仏典に登場する言葉です。

 仏典のいずれもが、お釈迦様が心理や道理を、人々に説きあかしているのです。

 

果報(かほう)

 

 「果報は寝て待て」という、ことわざがありますが、 普通は良い結果のことをさします。仏教では「報いとして受ける結果」という意味で、良い結果だけではなく、悪い結果のこともさします。仏教からの言葉には、 言い回し方から違う捉え方をされてしまい一般に広まってしまう場合もあります。このために仏教から出発した言葉が、一般の人が使うようになる時には反対の意味になることもあります。

 仏教において果報は「因果応報」のことを指し、一般的に用いられる果報の意味とは異なった意味を指します。仏教における本来の果報は「前世に行なった行為(業)によって来世に報いとして受ける結果」のことを指し、良い結果も悪い結果も含めすべての報いとして受ける結果を指す言葉です。

 なお、一般的に日常生活において使われている果報は「良い運を授かって幸福なことやその様」指す言葉として使われることが多く、仏教における果報の意味とは異なります。また、運の良いことを「果報」、運が良い者を「果報者」と称し、逆に不幸なことを「因果(いんが)」、不幸な者を「因果者」と称することがありますが、因果についても本来の意味とは違った意味で使われている言葉となります。

 

葛藤(かっとう)

 

 葛藤とは、人間関係において価値観のズレやお互いのいがみ合いで対立して争うことや、自分の心の中でいくつかの選択肢が存在してどれを選ぶか迷うことや、欲求や感情が生まれて思い悩む様子のことを言います。

 「葛藤」の「葛」(かずら)は蔓性植物のことで、「つる植物」のを指す言葉です。そして「藤」(ふじ)はマメ科フジ属のつる性落葉木本のことを言います。葛藤とは「葛」と「藤」同じようなつる植物が複雑に絡み合って、どちらかを切るしかなくなっている状態を表しています。一般的には悶着・相克・抗争の意味に使われ、欲求の心中での対立という心理学の用語となりました。

 仏教では、このつる草が樹にまとわりついて、ついには樹を枯死させてしまうように、人が愛欲に堕すると、自滅してしまうと教え、愛欲煩悩を「葛藤」に例えています。また、正道を妨げる煩悩の例えで、禅宗では、文字言語にとらわれた説明、意味の解きがたい語句や公案、あるいは問答・工夫などの意にも用いられます。

 葛藤と聞くと対立や悩むといったネガティブなイメージを持つ方が多いかもしれません。しかし、葛藤しているということはより良くなる方法を探している状態や、成長しようとしている状況だとも言えます。

 

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