第八十回コラム「仏教用語について part22」

無尽蔵(むじんぞう)

 

「無尽蔵」という言葉はいくら取ってもなくならないことを意味していて、「無尽蔵のエネルギー」などとして使われます。この言葉はそもそもが仏教用語であり、「広大な空間において、尽きることのない徳を包含する蔵」を意味し、「無尽(むじん)」そのものの意味には「果てしない」や「無限」の意味合い、または「どれだけ取っても尽きないこと」を言いました。

この「無尽蔵」の意味合いは、人の世の中に見立てられて成り立ちました。「どれだけ物ごとが起きても全てを受け入れ、また、どれだけ生き物がいてもその全ての行動を限りなく受け入れてくれる世界」のことを「無限に包み込む蔵」に喩え、万物の生命を優しく包んでいる世界への視点にその由来があります。

 

 

世界(せかい)

 

 「世界」という言葉は一般用語として使われていますが、実はこの言葉も仏教語です。古代インドでは、想像上の須弥山という巨大な山を中心とした宇宙観で全世界を考えていたようです。

 しかし仏教では、「ひとりの人間には、ひとつの世界がある」と教えます。ひとつの大きな入れ物のなかに、地球や世界があるという考え方は世間的です。宗教的には、ひとりにひとつの世界があるというのです。つまり、自我というものを国王として、見渡す限りを自分の領土(世界)として固執しようとするのです。

 自分に関係の深いものを近くに置き、関係の浅いものを遠くに置くという「自我の遠近法」をもって暮らしています。ひとりの人がここにいれば、そこにはひとつの固有の世界があり、別の人がいれば、また別の世界を持って生きているのです。百人いれば、百の世界が存在しているわけです。ひとりの人間の死は、ひとつの世界の消滅を意味します。私たちはたったひとつの世界に住んでいるのだと思い込んでいますが、実存的に見れば世界は重層的に重なっているのです。

 

主人公(しゅじんこう)

 

 皆さんもご存知の通り、「主人公」とは物語の“主役”で中心人物のことを指します。一方、『主人公』とは禅語や仏教の言葉でもあります。禅語や仏教用語で使われる主人公の意味は「本来の自己」「あるべき本来の自分」のことを言います。 心の乱れや、迷いに惑わされず、理想の姿に近づこうとする本来、備わった素質を指す言葉です。つまり主人公とは“本当の自分だということで、本当の自分=主人公となるのです。「本来の自分とは何者なんだろう?」「本来の自分はどこにあるんだろう?」と声に出して自分に呼びかけてみる。その声を聞いて自分を自分で覚醒しなければいけないので、自分の声に気づかせてあげることが大切です。

 時として人は誰でも自分を見失うものです。外から入ってくる情報やさなざまな刺激を受けて生活していて、生活や仕事に追われその忙しさから文字通り心をなくしてしまいます。心がなくなってしまうのは、声が届きにくい状態になっているということです。

 たまには自分自身と会話してみるのもいいかも知れませんね。

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