第五十二回コラム「日本仏教の歴史 part2」

日本仏教の祖 聖徳太子

 

 西暦五九二年、推古天皇が即位しました。女性の身で国を治めることに不安を覚えた推古天皇は摂政の役をそばに置くことを決め、その役を甥の聖徳太子を任命しました。

 西暦六〇四年の正月、推古天皇の新しい宮殿におおぜいの役人が集まりました。そこには身分の低いものも宮殿にはいました。なぜ身分の低いものも宮殿にいたのかというと、摂政の聖徳太子が冠位十二階の制度をつくり、個人の力や才能によって地位を振り分けたからでした。

 さらに聖徳太子は憲法十七条を発布しました。また聖徳太子は隋と国交を結び、行き詰まった朝鮮半島との関係を打開しようとたびたび隋に使者を送っていました。

 西暦六〇四年、小野妹子を大使とした遣隋使の一行が、隋の皇帝である煬帝のもとを訪れました。そして翌年、隋の裴世清が来日し、ついに国交を開くことに成功しました。

 また太子は仏教の師であり、側近の一人である慧慈の教えを三経義疏(勝鬘経義疏・法華義疏・維摩経義疏)を書き記しました。太子は仏教を在家の立場で正しく理解し、出家者にない在家の精神で意見を書きました。

 西暦六二二年に聖徳太子は薨去しました。もし聖徳太子がいなかったら日本の仏教が滅んでいたと言われるほどの人物でした。

 

山背大兄王の死

 

 聖徳太子の死後十五年、六四三年の皇極天皇の時代に、蘇我入鹿は自分の権力を維持するため、聖徳太子の子である山背大兄王を討つ決断を下します。入鹿は山背大兄王を襲撃し、山背大兄王は館を離れなんとか逃がれました。このまま東国へ行って兵を集めて戦えば必ず勝利を得ることができる戦況でしたが、山背大兄王は戦えば農民に迷惑がかかるといい、自ら自害することを決めます。家臣たちは止めましたが、山背大兄王は父である聖徳太子の教えである「世間虚仮唯仏是真」(この世にある物事はすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実であるということ。)を守り、山背大兄王は自ら館に戻り、一族とともに自害しました。

 国家仏教への道

 

 六四五年、大化の改新の年、孝徳天皇は「仏教興隆」の詔を下し、各地で法会や経典の講説が行われました。またお盆行事の始まりである、盂蘭盆会が行われたのもこのころだと言われています。

 こうして仏教は国家仏教的な色彩を色濃くしていき、六八五年に天武天皇は家ごとに佛舎をつくり、仏像を祀り拝めという詔を下しました。そして七〇一年に大宝律令が完成施行されました。大宝律令には僧侶の生活を規定した法もあり、こうして仏教は徐々に国家仏教として変貌していきました。

 

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