唐に渡った最澄と空海
792年、長岡京にある大学で子弟たちは貴族出身のエリートたちであった。その大学に通っていた空海は、その大学を出れば立身出世の道が開けるが、本物の仏教を勉強することを望んでいたため、山林修行者とともに仏教の修行に専念した。
空海は自分が求めていた仏教は密教だったと気づき、唐に渡り密教を学ぶことを決意します。
804年7月6日、九州肥前田浦から四隻の遣唐使船団が出港した。第一船に空海、第二船に最澄が乗船した。船団は日本を離れるや嵐に遭遇し散り散りになってしまった。9月1日、最澄の乗った中国の明州の港に着いた。
最澄は台州に行き中国天台七祖の道遂に会い天台仏教の奥義と大乗仏教菩薩戒を授かった。また天台山に登って第六祖の湛然から牛頭禅を行満から天台教学を学んだ。再び民州の港に戻るが、まだ船が出ないことを知って越州に向かった。そこで順暁阿闍梨から密教を学んだ。8ヶ月にわたる唐での勉学修行を終え、最澄は帰国の途についた。
一方空海は、長安でバラモン教の哲学を学んでいました。バラモン教の根本は宇宙的原理のブラフマンと人格的原理のアートマンが究極的に一致する梵我一如説にあることから、密教の本質を見出し、恵果阿闍梨に教えを請いました。
空海は入門してからわずか二ヶ月で阿闍梨の職位をつぐこととなりました。空海は青竜寺で恵果阿闍梨から伝法灌頂を受け、密教の法の全てを伝授されました。儀式を終えた空海はたくさんの経典と仏具、法具を恵果から授かり、806年に恵果から授けられた密教をたずさえて帰国の途につきました。
最澄と空海の出会い
807年に最澄は空海が入住した高尾山寺を訪れ、密教の経典を貸してもらえないかと頼みに行き、空海は快諾しました。
812年11月15日、高尾山寺において空海による金剛界の結縁灌頂が行われました。813年に最澄の弟子が空海を訪ね、「理趣釈経」を貸して欲しいと言ってきました。
空海は「理趣釈経は密教の真髄であり、ほんとうに密教の真理を知ろうとするなら、真の密教僧となり行を納める支度をしなさい」と手紙に書いて最澄の弟子にもたせました。最澄はこの手紙を読み、空海に経典の借用を断れたことによって、二人の交友関係は次第に遠のいていきました。
822年最澄は病床に倒れ、弟子たちを呼び「わがためにほとけをつくることなかれ、わがために経を写すことなかれ、わが志をのべよ」と伝えこの世を去りました。最澄がこの世をさってから7日後に、最澄の悲願であった大乗戒壇設立の勅許が比叡山に届けられました。