お釈迦様の入滅
お釈迦様はインド北方、今のネパール地方の釈迦国に王族の子として紀元前6世紀半ばごろお生まれになりました。しかし29歳の時、王子としての栄華を捨てて出家しました。出家とは肉親や家族とも縁を切り、俗世間から離れた生活をすることです。そして35歳にしてさとりを開かれると一箇所に定住することなく伝道の旅を過ごされました。
ガンジス川流域に住む人々に尊い教えを説かれました。この当時インドの人たちはカーストという身分制度によって厳しく貴賎が決められていました。神に仕えるバラモン、王族のクシャトリヤ、庶民のバイシャ、その下のシュードラです。しかしお釈迦様は、どの階級の人でも悟りを得ることができ、苦しみから解放されると主張したのです。
やがて時が経ち、お釈迦様はクシナガラの地で弟子の阿難に「生あるものは必ず滅びる、わたし亡き後は自分自身と我が教えをともしびとして修行に励むのだ」という言葉を残し永遠の眠りにつかれたのです。おん年80歳の時と言われています。
その遺体はお釈迦様の遺言どおりに僧団ではなく町の人々の手によって火葬されました。遺骨は八ヶ所に分配され、その遺骨を納めていたかめと灰も含めて各地に十の塔がつくられたといいます。それらは民衆によって供養され、信仰のよりどころとなりました。そうした人々を出家に対して在家の信者と言いました。つまりお釈迦様の弟子たちは僧団の僧と在家信者で構成されていたのです。また僧団の弟子たちはお釈迦様から直接教えを聞いたことから声聞とも呼ばれました。
それから約200年後、マガダ国のアショーカ王によって古代インドが統一されました。戦によって多くの戦死者が出ただけではなく、飢えと疫病がはびこり、その何倍もの人たちが亡くなりました。この現状にアショーカ王は悩んでいる時に仏教の修行僧に出会い、仏教の精神を聞いたアショーカ王は感激し、熱心な仏教信者となりました。その教えを保護して八万四千もの仏塔や石柱を建てたと言われています。
世尊の声
アショーカ王が建てた仏塔には多くの在家信者が集まりました。しかし僧団の僧はアショーカ王の建てた仏塔には行かず、自分が信じた修行方法で悟りをひらくために、在家信者とは一線を引いていました。そんな時にお釈迦様が空から現れ、
「我が弟子達よ。そのようなせまい了見でどうする。自分ひとりの悟りにこだわり多くの迷える人々に救いの手を差し伸べることを忘れてはいけない。そんなことでは真の悟りを得られるはずがないぞ」と述べ、
「これから言うわたしの言葉を書き記し、後世に伝えなさい」と続けました。
「これからはじまる法華経の物語は時間と空間を超越した永遠の存在である」お釈迦様・・・すなわち釈迦牟尼仏の説かれた教えであります。
この経典は中国で漢訳され、やがて日本にまで伝えられました。そしてこの物語は5世紀に鳩摩羅什によって訳された「妙法蓮華経」全二十八品をもとに構成されています。