第二十三回コラム「玄奘三蔵インドへの旅について」

西遊記の玄奘三蔵について

 

 孫悟空・猪八戒・沙悟浄を引き連れて天竺へ大冒険を繰り広げる大冒険。みなさんご存知の「西遊記」ですが、その中に登場する玄奘三蔵法師は実在の人物です。今回は玄奘三蔵法師についてお話ししていきたいと思います。

 1 旅立ち

 2 天竺への道

 3 中国へ帰還

 

 1 旅立ち

 六百二年、河南省陳留県に生まれた玄奘三蔵法師は、性は陳で名を緯と言いました。父の名は陳慧で子が四人おり玄奘はその末っ子でした。幼少期から聡明の声が高く十三歳で出家し、すでに出家していた兄の長捷とともに洛陽の浄土寺で学び、のちに二十歳の時に成都で授戒し正式な僧となりました。

 六百二十九年、玄奘三蔵が二十七歳の時、当時の中国では出国を法律で禁止されている中で、「天竺でまことの仏法を学びたい」という思いからひそかに長安を出て瓜州までやって来ました。そこで石槃陀と名乗るものが現状のもとに現れ、戒律を授けて欲しいと頼んで来ました。玄奘はその男に戒を授けると、玄奘が天竺に向かうことに難航していると知ると戒を授けてもらった代わりに、翌日に国の外へ案内してくれることとなりました。翌日に馬と案内人を授かり玄奘たちは唐の国の最西端の関所である玉門関を抜けついに国外に出ました。その後案内人と別れ、一人で旅を続けた玄奘法師は旅の拠点となる村に立ち寄り、水と食料を調達しながらその先にあるハミ国やカラホージョ(高昌国)を目指し砂漠の旅を続けました。そこは現在のゴビ砂漠のもっとも荒れ果てた一帯で莫賀延磧と呼ばれている場所でした。砂漠を旅し続ける玄奘でしたが、立ち寄った村で教えられた通り道を進んでいましたが、道に迷い食料と水が尽きてしまいました。五日間飲まず食わずで砂漠をさまよい、死を覚悟した玄奘でしたが奇跡的にオアシスを見つけ水を確保し、なんとか旅を続けることができました。恐怖の莫賀延磧を抜け、玄奘はハミ国を通りカラホージョに入りました。カラホージョに着くと、国王である麹文泰が出迎えると仏教信者であったために、玄奘を長期間国に滞留してほしいと申し出ました。しかし玄奘は早く天竺へ行きたかったためその申し出を断ると、そのことに激怒した国王は玄奘を部屋に幽閉してしまいました。三日の間幽閉され食事を全く取らずいたところ、玄奘の体調を案じた国王は、幽閉を解き兄弟の契りを結んでほしいと申し入れました。玄奘はその頼みを快く受け、天竺から帰ってきたら必ず三年間この地にとどまると約束し旅立ちました。この約束は結局果たされることはありませんでした。玄奘がインドで学び帰途につく一年前、この国は唐によって滅ぼされ、王はこの世をさっていたからです。

 2 天竺への道

 カラホージョを出発した玄奘は、遭難することを覚悟で真夏でさえ雪深い天山山脈の凌山をルートに選び、結果この凌山越えで凍死者の数は三分の一にのぼり多大なる犠牲を払うこととなりました。天山山脈の雪路を七日間続けましたがようやく抜け、イシク・クル湖にたどり着き、その後ヤブグカガンが治めるスイアブ城に向かいました。スイアブ場では国王から中国語のわかる道案内人をつけてもらうことができました。こうして玄奘三蔵は麹文泰やヤブグカガンらの厚情にも支えられ天山北路からシルクロード本街道を一路西南に進み、ついにシャフリ・サブズの鉄門にたどり着きました。鉄門を抜けた玄奘三蔵一行はその後、バクトラバーミヤーンなどの仏跡を巡拝しながらカピシー、ナガラハーラを経てようやくインダス河畔のガンダーラに至りました。その後インダス川を渡ってカシミールに到達し、この地の高僧について二年間もろもろの経典やサンスクリット語を学び、ついに旅の最終目的地であるマガダ国のナーランダー寺にたどり着いたのです。

 ナーランダー寺では天竺屈指の名僧シーラバドラがいました。シーラバドラは長い間痛風を患っており、それが三年前に急に激しい痛みに襲われてたまらず断食で命を絶とうと考えるくらいに苦しんでいました。そんな時夢の中に三人の菩薩が現れ、「正しい仏法を広めることを誓うならば痛みが消え失せるであろう」と告げられ、さらに「中国から『瑜伽師地論』を学びに来訪する僧があるので彼に教えを説くように」とも告げたのでした。玄奘の旅の目的である名だたる寺で「瑜伽師地論」などを研究することだったのでまさに研学を進めるのに打って付けの寺院でした。

 

 3 中国への帰還

 玄奘は念願の「瑜伽師地論」を当時最高の師から学ぶこととなりました。その間、玄奘の才徳は広く知れ渡り学才は内外の典籍に及び、徳は一世を風靡するに至りました。その才徳には中央インドを統一したハルシャバルダナ王や東インドのクマーラ王も厚い信頼を寄せるほどでした。玄奘がナーランダー寺に入ってから十年が過ぎた頃に、玄奘は中国に帰りインドで学んだ教説を広めたいと考えるようになりました。玄奘の帰国にあたってあまり信用できないクマーラ王からの招きを受けて欲しいと師であるシーラバドラから頼まれました。シーラバドラはクマーラ王の招きを再三断っていましたが、招きに応じない場合は象軍で寺を踏みつぶすと脅されていたのでした。玄奘は師の頼みを引き受けクマーラ王のもとへ向かいました。王は玄奘に対して最高のもてなしをしました。この話を聞いたハルシャバルダナ王は「先に招いたのはこちらだ」とし、またクマーラ王に玄奘を送り届けるよう使者をだしたところ、「私の頭は差し出せても、玄奘様は差しだせない」と申し出たことに激怒しました。ハルシャバルダナ王はクマーラ王に「なら頭を差し出せ」と言ったところ、クマーラ王はすぐさま玄奘を伴ってハルシャバルダナ王のもとに馳せ参じ、そこでハルシャバルダナ王と玄奘の会見が行われました。

 ハルシャバルダナ王は玄奘を論主に迎えて大法会を開きたいと申し出ました。さらにそれが済んだら五年に一度の無遮大会を行い、僧侶や貧者たちに布施を施すという約束をしたことから、玄奘はその申し出を引き受けました。玄奘は大法会で大乗の論説を行い異論のあるものを募りましたが、恐れをなして誰も玄奘に論争を仕掛けるものはいませんでした。大法会後に玄奘は暇乞いして天竺を後にし故国に向かって旅立ちました。

 六百四十五年、玄奘が四十三歳の時についに長安に戻りました。玄奘が天竺から持ち帰った経典は六百五十七部、その他仏舎利や仏像もありこれらを運ぶには二十頭を超える馬が必要だったと言われています。玄奘は長安から洛陽に赴き皇帝に謁見し密かに出国したことを伝えましたが、皇帝はそれを許し、また翻訳事業に取りかかる事も許しました。

 玄奘は早速翻訳に取り掛かり、西遊記の原本とされる「大唐西域記」十二巻は六百四十六年に編纂されました。他にも「大菩薩蔵経」二十巻、「仏地経」一巻、「六門陀羅尼経」一巻、「顕揚聖教論」二十巻などを訳され、ついで「瑜伽師地論」百巻の訳業を二年がかりで行いました。その後六百四十八年から「金剛般若経」や「摂大乗論」などの訳に取りかかり、翻訳所も新築の慈恩寺に移されました。そしてさらに「大般若経」六百巻などを訳し、その総数は七百十四部千二百三十五巻に達しました。

 玄奘の訳業の素晴らしさはその膨大な量ばかりではなくむしろその充実した内容にありました。それまでの漢訳経典は部分訳や大意訳が多かったのに対し玄奘は原典から正確な逐語訳をしたのでより完全なものになっており、以後は玄奘訳の経典が人々の間で広く用いられるようになりました。

 「般若心経」は日本でもよく知られたお経ですが、じつはこれも玄奘が訳されたものが広く使われていて、日本の精神文化にも起きな影響を与えるとも言えます。

 ひたむきに夢を追い断固たる信念で生きた名僧は現在でも多大なる恩恵を残しています。

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