日本でも親しまれる、だるまのモデルとなった達磨大師について
現在の日本にも広く知れ渡っている「だるま」には実はモデルがいます。インドの僧である達磨大師がモデルで、やがて中国に渡って禅を広めた実在の人物です。今回は達磨大師についてお話ししていこうと思います。
1 禅宗のはじめ
2 菩提達磨の誕生
3 中国での布教
1 禅宗のはじめ
まず達磨大師について語る前に、禅宗の始まりについてお話ししようと思います。
紀元前五世紀ごろインドの霊鷲山でお釈迦様は弟子たちに説法を続けていました。ありがたい説法に弟子たちはかたずを飲んで耳を傾けていましたが、お釈迦様にも心配がありました。言葉によっての教えがどれだけ後世に誤りなく伝えられるかがどうしても腑に落ちなかったからです。そんなある日、お釈迦様は弟子たちの前で言葉ではなく黙ったまま花を持ち天に掲げられました。弟子たちはお釈迦様がどうしてそのようなことをしたかわからない中で、弟子である摩訶迦葉だけが理解しました。その説法の意味は「言葉によって法を伝えないで心で法を説き、以心伝心つまり心から心へ法を伝えた」というものでした。これを機に摩訶迦葉はお釈迦様から認められ、お釈迦様が得たさとりの真髄の全てを後世に伝えるようにと、真実の教えの知恵を収めた蔵を授けられました。摩訶迦葉は衣食住に対するむさぼりを捨てて修行することで仏弟子一つまり、頭陀第一としてお釈迦様の十大弟子の一人に数えられました。心から心に伝える正法こそ、これが禅のはじまりであり摩訶迦葉は禅宗の祖としてその足跡を残すこととなりました。
2 菩提達磨の誕生
ここからは達磨大師についてお話ししていこうと思います。
紀元前四世紀の終わり頃に南天竺にコウシ国という小さいながらも平和で豊かな国がありました。そこに般若多羅というお釈迦様から法を受け継いだ二十七代目の祖師が訪れたことを知り、コウシ国の王は般若多羅を宮殿に招きました。般若多羅が尊い仏教の教えを説いたので、お礼に宝玉を贈りました。そして、宮殿にいた三人の王子たちにも挨拶させると、般若多羅はこう言いました。「この宝玉は国王様からの贈り物で、なかなか手に入りにくいたいそう優れた宝物です。さて王子様がたは、この世にはこの宝玉よりもっと優れた宝物があると思いますか」と三人の王子たちに尋ねました。第一の王子は「この宝玉はよりすばらしいものなどありません。王家だからこそ贈呈できる最高の品です」と答えました。第二の王子は「兄の言う通り、尊者のような高徳の方でなければ受けることのできない宝物です」と答えました。上の2人はこの世にこれ以上の宝はない、という答えだったのですが、第三王子の菩提多羅は違いました。「最上の宝物はお釈迦様の解かれた真理です。光の中では智慧の光が一番輝いて最上です」と答えました。この優れた答えを聞いた般若多羅は菩提多羅に出家することを勧め、国王もこれを承諾しました。
やがて国王が病に倒れ、亡くなってしまいました。菩提多羅は父が亡くなり死後どこにいくかを見ようと思い七日間の間冥想し、禅定に入りました。七日後に禅定から目覚め、父が天上界にめされたことを理解した菩薩多羅は、これをきっかけに出家し、般若多羅に弟子入りしたのでした。この時に「菩提達磨」という法号を授けられ、般若多羅のもとで四十年以上にわたる厳しい修行の末、ついに仏法の正しい教えをすべて伝えられ、一人前と認められました。般若多羅から「今まで学んだことを人々に伝え、この国の教化に努めなさい」と言われ、さらに「わたしが死んでから六十七年後に中国にて厄難が起きるので、中国に渡りその厄難を鎮めなさい」と言われます。
般若多羅が亡くなった後に、菩提達磨は国内の教化に勤め、六十七年後に正しい仏法を伝えるため中国へむかいました。
3 中国での布教
菩提達磨は一人で商船に乗り込み海から中国へ向かい、南インドを出て三年後の五百二十年に広州の港に着きました。インドの高僧が中国に来たことはすぐに皇帝にまで伝わり、仏教を奉じていた梁の武帝が宮殿に招き入れました。梁の武帝は「わたしが即位してから寺を建てたり写経をしたり、僧侶を援助してきたことは、どれほどの功徳になるのか」と菩提達磨に尋ねました。すると菩提達磨は「無功徳、何の功徳もない」と答えました。
「功徳がないというのは一体どういうことだ」と尋ねると、「そんなことは人間界や天界の小さな満足にしか過ぎない、ただの迷いで、功徳などは実際には何もない影のようなものです」と答えました。「それでは真実の功徳とは何か」と尋ねると、「清らかな知恵が現れ何者にもとらわれないこと。帝位にあって功徳を望むのは無理というものでしょう」と答えました。「私の前にいるお前は一体何者か」と尋ねると、「知りません」と答え、皇帝を怒らせました。
その後、菩提達磨は各地を回り法を説きましたが、皇帝を怒らせたお坊さんだという噂がたち、まともに話を聞こうという者はいませんでした。「この国では機縁が熟していない」と感じた菩提達磨は少林寺に身を寄せ、その後九年間、壁に向かって座禅を続け、いつしか菩提達磨は「壁観婆羅門」と呼ばれるようになりました。
しばらくすると洛陽の都で仏教を学んでいる神光と名乗る僧が菩提達磨の弟子になりたいとやってきました。雪がしんしんと降る中で、菩提達磨に挨拶をしても壁に向かったまま振り向きもせず、一言も言葉を発しませんでした。試されているに違いないと思った神光は扉の外で一晩立ち尽くして待っていると、明け方に菩提達磨が口を開き、「一体何のためにそのように雪の中に立っているのか」と尋ねました。神光は「御仏の正しい教えを求めて立っています」と答えると、「御仏の教えを軽々しく求めるものではない。命を投げうってはじめて求められるものだ」と答えました。神光はその言葉に感激し、左腕を切り落としました。それを見た菩提達磨は神光を中国ではじめて弟子と認め、慧可という名前を与えました。
その後も菩提達磨を慕って教えをこう人々がやってくるようになり、弟子も少しずつ増えていき、壁に向かって座禅し続けること九年の年月が流れました。その後、尊い教えを伝え続けた菩提達磨は、大通二年(五百二十八年)に百五十歳の生涯を閉じました。
だるまのモチーフとなった達磨大師は、これからも日本人の人気者であり続けるでしょう。