第十九回コラム「戒律を伝えた僧 鑑真について」

日本への渡航をあきらめなかった伝戒の師 鑑真について

 

 唐の高僧で授戒の大師と仰がれていた鑑真和尚。日本の授戒の師となるため、渡日に命をかけた鑑真は日本仏教の柱として今もなお残されています。今回は鑑真について詳しく見ていきたいと思います。

 1 授戒の大師

 2 遣唐使

 3 渡航計画そして日本へ

 

 1 授戒の大師

 701年、中国の揚州江陽県にある大雲寺に智満という僧がいました。智満を訪ねて来た淳于とその息子は、息子が本堂の仏様を拝した際にその姿にいたく感動し、出家を望んでいるということを智満に伝えました。智満は十四歳の淳于の息子が只者ではないことを感じ取り、その願いを聞き入れ出家させました。その息子は鑑真という名を与えられ、その後鑑真は揚州竜興寺の所属となりました。大雲寺も竜興寺も日本の国分寺のようなもので天下四百余州の州ごとに一寺ずつ置かれていました。鑑真は十八歳の時に道岸禅師を師として菩薩戒を受けました。道岸禅師は授戒の主と呼ばれ当時の名僧で、鑑真は道岸禅師の影響で律の研究に力を入れました。鑑真は二十歳から二十六歳までの七年間、洛陽や長安へ遊学し、708年には長安実際寺の戒壇に上り荊州南泉寺の弘景律師より具足戒を受けました。二十六歳の時には鑑真は初めて律疏(戒律の注釈書)の講義をし、学匠として独り立ちしました。以後、鑑真は唐の仏教界でめきめきと頭角をあらわしていき、戒律の講義を開くこと百三十回、数多くの寺を建て仏像を作ったり、貧民や病人の救済事業も行っていきました。

 そして得度させたり戒を授けたりした弟子は四万人以上にのぼり、鑑真は授戒の大師として仰がれるに至りました。

 

 2 遣唐使

 733年、日本から十六年ぶりの第九次遣唐使を乗せた四隻の遣唐使船団が中国大陸を目指して出発しました。留学の僧の中に栄叡と普照が乗っていました。その二人が遣唐使として訪れた理由は、日本の僧や尼僧が堕落しきっていたので、仏教界の規律を再構築するためにできるだけ早くすぐれた授戒の師を見つけ、日本へ連れ帰ることでした。

 遣唐使の船は四ヶ月をかけて中国大陸の蘇州の岸にたどり着き、遣唐使の到着は蘇州の知事によって中央へ報告され、やがて一行は洛陽に向かうこととなりました。洛陽に到着すると、栄叡と普照は洛陽の大福先寺に入り留学の僧としての生活が始まりました。それから九年間の間に勉学と戒師を探しましたが、唐の法律で「他国から唐へ来て、九年たっても故国に帰らない者は唐の戸籍に編入される」という規定があり、そうなれば外交特権がなくなり、日本へ戒師を正式に招くことが出来なくなる事から二人は密航することを決意しました。

 栄叡と普照は大安国寺にいる、鑑真の弟子である道抗を訪ね、日本の戒師になってもらうよう尋ねたところ道抗は渡日を承諾し、また鑑真にお願いして、弟子の中から日本へ行くことのできる僧を選出してくれることを約束しました。更に密航で日本へ向かうことも受け入れてもらい、密航の手伝いをしてくれる人物も紹介してくれることとなりました。

 栄叡と普照は道抗の案内で、密航の助けをしてくれる宰相李林甫の屋敷を訪れ、天台山参詣を承認した公文書をもらいました。表向きは天台山国清寺へ奉納仏を持っていくということにして、海に出たらそのまま日本を目指すという計画でした。この計画は道抗の他に長安の僧澄観、洛陽の僧徳清、朝鮮の僧如海の三人も日本行きを承諾し、日本からの留学の僧の二人も同行することに決まりました

 742年栄叡と普照は道抗と共に長安をたち揚州の大明寺に向かいました。そこには鑑真和尚がおり、「この計画のために日本へ渡って伝戒の師となる者はいないか」と弟子達に聞いたところ、大海を渡るためには命をかけなければならないため誰も賛同しませんでした。それを見た鑑真は自らが日本へ向かうことを決意し、鑑真の決心により十七名の高弟が日本へ渡ることを申し出ました。

 

 3 渡航計画そして日本へ

 鑑真たちはこの後に合計で六回の渡航計画を実行します。

 一回目の渡航計画は、船をつくり様々な品物を準備する中、これらの行動を一行は揚州城外の既際寺、開元寺、大明寺などに分宿して行いました。李林甫の公文書があるとはいえなるべく官憲の眼をさけるためでした。日本行きの準備が進む中で、僧如海の素行が良くなく学業も乏しいことから連れていくのをやめようという声が道抗から上がり、それをたまたま聞いていた如海は役所に道抗が海賊と通じているという嘘の報告をし、道抗、栄叡、普照たちは捕らえられ獄に入れられてしまいました。取り調べにはかなりの時間がかかり、最終的には李林甫の公文書により如海の偽りの訴えであったことがわかり、道抗たちは釈放されました。しかしこの事件を機に、あれほど渡日に積極的でだった道抗はその志を捨て、日本からの留学の僧二人も一行の元から去っていってしまい、この渡航計画は失敗に終わりました。

 その数ヶ月後に栄叡と普照は鑑真を訪ね、鑑真もまた日本への渡航を諦めていませんでした。鑑真は軍用船一隻を購入し、この年の十二月に鑑真一行は揚子江を下りましたが暴風にあい、近くの岸に流されてしまいました。翌日暴風は収まり、船の修理を終え再び出航しましたが、波が高く予定していた港に船をつけることができず、止むを得ず下嶼山に上陸しここで一ヶ月を過ごし風を待ちました。そして再び順風を得て桑石山という島に向かいましたが、周囲は岩礁が散らばっており岸に近づくことができずついには座礁してしまいました。一行は岸壁の下に流れ着き、飢えと渇きに耐えながら救助を待ち、八日後に官船が来てようやく救助されました。こうして二回目の渡航も失敗に終わりました。

 三回目の渡航計画は準備をするまもなく挫折してしまいます。越州の僧たちは栄叡が鑑真をそそのかして日本へ密航しようとしていると州の役人に密告し、栄叡は捕らえられ枷をつけて都へ護送されることになりました。そして杭州まで来た時に体調を崩し倒れてしまい宿へ運ばれました。その際に監視の役人が鑑真を尊敬している人物で、鑑真自らが日本への渡航を望んでいることを栄叡から聞かされ、見逃してもらい一ヶ月後に栄叡は再び普照のもとへ帰ることができました。

 四回目の渡航計画では、鑑真が弟子二人に船の準備をさせるために福州へ向かわせ、福州から渡海しようと計画しました。鑑真は栄叡と普照ら三十余人を率いて福州へ向かう途中で、鑑真が役人に身柄を拘束されてしまいます。拘束された理由は揚州にいる鑑真の高弟の霊裕が、鑑真の身を案じるあまり渡日を阻止する運動が起こされたためでした。こうして四回目の渡航計画も失敗に終わりました。

 五回目の渡航計画は、鑑真が六十一歳になった年の春に、鑑真は船を準備し、揚州に新しくできた運河から一行は闇夜に紛れて出航しました。揚子江に入り東に下っていた頃から強風が吹き始め、船は江中にある島の周りを旋回し続けましたが、一夜明けると風が変わり越州に属する小島の三塔山に着きました。一行は順風を待ち一ヶ月ほどこの島にとどまり、出発しましたが大海に出るにしたがい強風が吹き始め海は荒れ、ようやく強風がおさまる頃には船は漂流状態でした。船が漂着したのは日本ではなく海南島の南端にある振州の河口であったため、事実上五回目の渡航計画も失敗しました。揚州に向かう最中、栄叡は体調を崩し再び日本の土を踏むことなく唐の地でその生涯を終えたのでした。鑑真と普照は揚州に帰る途中に、鑑真は失明し、五度の失敗で経済的にも厳しくなったことから状況を立て直すことを決めました。

 752年に遣唐使船が中国大陸に到着しました。普照は遣唐使たちの宿舎に赴き、大使である大伴子麻呂に鑑真の渡日について説明し、大使が唐の皇帝である玄宗皇帝と会見した際に、鑑真を日本へ招へいしたい意図を伝えました。鑑真を日本へ連れていくには条件がつけられ、道教の士も日本へ連れていき布教を保護してほしいというものでした。日本は仏教の全盛時代であったため道士を受け入れる余地がないため、この条件を呑むことができませんでした。753年に大使たちは普照の案内のもと鑑真を訪ね、密航させることを決意しました。

 第一回の渡航計画から実に十二年、ようやく鑑真は日本へたどり着くことが叶いました。鑑真一行は東大寺へ向かうと754年東大寺仏殿の前に戒壇が設けられ、聖武天皇は鑑真和上より菩薩戒を受けました。また皇太后(孝謙天皇)も登壇し戒を受け、ついで僧四百三十余人が授戒し、これ以後三師七証による正式な受戒を経た者でなければ政府公認の僧となることができなくなりました。

 759年に鑑真は律学研さんの場として唐律招提という私立の寺を創立しそこに移り住み、まもなく官立となり唐招提寺と名付けられました。天皇は詔を発して出家たる者はまず唐招提寺に入り律学を学び、のちに自宗を選ぶべしと宣したので、寺は四方から学徒が集まり講律授戒が盛んになりました。763年に鑑真は招提の宿坊で結跏趺坐して西を向いたまま波乱に満ちた生涯を閉じました。七十六歳の時でした。

 鑑真が日本の仏教界にあたえた影響は極めて大きく、命をかけた鑑真の渡日によって堕落する一方だった日本の仏教界は本来の姿を取り戻すことができたのでした。鑑真はまさしく日本仏教の恩人でしょう。

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