今回のテーマは「迷惑をかけてもいい」です。
ご覧くださいませ。
陽人の法話:迷惑をかけてもいい 貧困問題に取り組む活動家の湯浅誠さんの著書「反貧困」に次のような実話がでてきます。 「他人様に迷惑をかけてはいけない。
五十四歳の男性は、幼い頃から父親にそう教えられて育ったという。男性は同居している両親を養っていたが、父親が他界。ほどなく母親が認知症の症状がではじめる。
追い打ちをかけるように、勤めていた会社でリストラに遭い、一家は生活費にも事欠くように。
どうにか派遣の職を得たものの、母親の症状が急激に悪化。
仕事を辞めざるを得なくなり、失業給付を受けることに。
生活保護の相談のため訪れた区役所の窓口では「がんばって働いてください」と言われるだけ。
失業給付もわずかとなり、家賃も払えなくなる。男性は観念する。他人様に迷惑はかけられない、もう死ぬしかない、と…」
その後、この男性は、同居していた八十六歳の母を殺(あや)め、自らも自殺を図ります。このような殺人に至らないまでも、同じような状況を抱えた人は、今日では、決して珍しくないと思います。
最近私は悩みを抱えている方の相談を受けることが多いのですが、多くの相談者さんとこの男性とは共通していることがあります。
それは、皆「他人様に迷惑をかけてはいけない」と考えているということです。
「他人様に迷惑をかけてはいけない」という時の、「迷惑」には、いわゆる「迷惑行為」だけでなく、「助けられること」や「支援を受けること」「頼ること」も含まれています。
何故ここまで、他人にお世話になること、助けてもらうことに気が引けてしまうのでしょうか。
人間は、他の動物に比べて未成熟で生まれてきます。
生まれたばかりの赤ちゃんは、自分で食べることも歩くこともできません。
人間は、育児に手がかかるのです。そして、年をとって、だんだんと自分のことを自分でできなくなり、介護などのサポートが必要になる人もいます。
また、人生の途中で、病気を患ったり、障害を負ったりする可能性もあります。
生まれてから死ぬまで「誰の世話にもならず生きていく」ことなど、不可能なのです。
しかしながら、誰でも他人に迷惑をかけることや、自分の為に労力をかけてもらうことは、申し訳なく感じると思います。私もそうです。そして、それは、一方的にお世話になりっぱなしになってしまう時、つまりお礼や恩返しができない時に、特に申し訳ないと強く感じるのではないでしょうか。
私たちは、普通何かをしてもらったら、何かをお返ししたいと思います。
「ギブアンドテイク」や「ウィンウィン」などの言葉が表すように、交換で成り立つ関係に安心感を覚えるのです。
だからこそ、お返しできない時に、大きな罪悪感や、申し訳ない気持ちに囚われてしまうことが多いような気がします。 この交換の考え方が成り立つのは、物事を二元的に捉えるためです。
つまり、「自分」と「他者」、自分とそうではないものを、分別して考えます。
これは、当たり前のことのようですが、仏教では、この分別こそ迷い(無明)の原因となっていると説いているのです。 「諸法無我」の「無我」とは、私がいないという意味ではありません。
私は確かに存在しています。
しかし、私と私でないものの境目は、非常にあいまいです。
空気は私ではありませんが、吸い込んで肺に入った瞬間に「私」の一部になっています。食べ物もそうです。
口に入れる前は、「私」ではありませんが、胃に入れば、「私」の一部です。つまり、私と私でないものを明確に分けることはできません。
所有物についてもそうです。
分別するからこそ、「私のもの」と「あなたのもの」という概念が生まれ、交換という考え方が成り立つのです。
諸法無我とは、それ単体で存在しているものは何一つないという真理です。
この世界は網目状に複雑に絡み合って成り立っています。
すべてが持ちつ持たれつの関係なのです。
つまり、交換では置き換えられないことの方が、よほど多いのです。
気づいてうける御恩もあれば、気づかぬうちにいただいている御恩もあります。
そして、時間がたってから気がつく御恩もあるのです。
「親の心子知らず」のことわざがそれを表しています。
親は、子どもに、見返りを求めて愛情を注いだり、育てたりしません。
子どもは、多くの場合、いかに親が苦労して自分を育ててくれたかを知らずに育ちます。
そして、自分が大人になった時に、その受け取ってきた愛情や御恩に気がつきます。
時間が経ってしまっていること、そして、受けた御恩の大きさから、等価交換のように、親に直接恩返しをすることはできません。
だから、受けた御恩を本人に返すのではなく、自分の子ども、あるいは周りの方へ返していくしかないのだと思います。 また、先ほど「何も返すものがない時に、大きな罪悪感や、申し訳ない気持ちに囚われてしまう」と書きましたが、これも一方的な勘違いかもしれません。
何故なら、人は誰かの役に立てる時、大きな喜びを感じるからです。
助けたくても、助ける相手がいなければ助けることはできません。「助けられる」ことで、助ける人を幸せにしていることも、十分にあり得るのです。
物やお金には換算できませんが、人は捉え方によっては、「与える側」と「与えられる側」が、入れ替わってしまうこともあるのだと思います。
人は一人で生きていくことはできないということを知れば、他人に迷惑をかけずに生きていくことはできないということが分かります。
生きていくということは、自分が気づかないところで、誰かのお世話になっている。そして、それはお互い様なのです。迷惑をかけてしまうことを申し訳ないと思いながらも、苦しい時には頼り合える人間関係を構築していきたいものです。
お互い様の精神とも言える諸法無我の教えが広がることを願わずにはいられません。
【毎月、須磨寺にて法話をさせて頂いております】
毎月18日の10時からの護摩祈祷と写経会、20日と21日は11時半から奥の院にて、そして、21日は14時から護摩祈祷をさせて頂き、法話をさせて頂いております。
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※こちらの記事は、小池陽人様から許可を得て転載させていただいております。
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