第七十八回コラム「仏教用語について part20」

迷惑(めいわく)

 

「ご迷惑おかけします」などの言葉は、本当に日常的に使う語彙ですが、これも仏教からきている言葉です。現代日本語では、ある人の行為により別のある人が不愉快になることを「迷惑(めいわく)」と言います。

 しかし仏教では少し違います。迷惑はもともと、物事の真理を知ることなく誤ったことに執着している状態を、迷いの世界「迷界」といい、その迷界で惑っている(うろうろする)ことどうしてよいか分からなく途方にくれることを意味していました。要するに「どうしていいかわからなくなること」を「迷惑(めいわく)」というそうです。

 漢字の意味を一字一字見てみると、「迷」「惑」という2文字に「人を不快な気分にさせる」という意味にはなりません。日本ではなぜ意味が変わっていったのかには諸説がありますが、協調性を大事にする国民性が影響しているとも言われています。

 

平常心(へいじょうしん)

 

 現代で一般的に「平常心(へいじょうしん)」とは、「平常心」を失わないようにとか、「平常心」を無くさないように気をつけるというような形で使われています。

 ところで、「平常心(へいじょうしん)」は禅語では「平常心(びょうじょうしん)」と読みます。平常心(へいじょうしん)の意味としては、「何が起こっても落ち着いてブレない心」のようなものを想像します。

 ですが、禅における平常心(びょうじょうしん)は、それとは随分違う意味で使われています。 鎌倉・円覚寺の横田南嶺老師によれば「造作無く是非無く。取捨無く断常無く、凡聖無し」であり、「作り事をしない」「なんの造作もしないありのままの心」「それがそのまま道であり、仏でもある」それが平常心(びょうじょうしん)なのです。

 

 

愛嬌(あいきょう)

 

 「あの娘は愛嬌があるね」などというように愛嬌は現在、「にこやかで可愛い」、「親しみやすい」というような仕草を指して言う言葉ですが、仏教では「愛敬(あいぎょう)」と読みました。これは仏や菩薩の相を指した言葉で、柔和で慈悲深い相をしていて、誰もが知らず知らずのうちに敬愛し、ほほえんでしまうような相が、愛敬相なのです。「愛嬌(あいきょう)」は本来の「愛敬(あいぎょう)」からは少し離れた意味となります。

 知らず知らずのうちにほほえんでしまう相が、本来の愛敬の相であるとすれば、ただただ他人の気をひくために、愛敬をふりまくというのは、本来の意味からすると邪道ということになってしまいます。

  

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