第六十七回コラム「仏教用語について part9」

 食堂

 

 学校の食堂や外食や職場などで「食堂(しょくどう)」を利用していますが、この「食堂」は、元々は仏教の言葉です。

仏教寺院には「七堂伽藍」(しちどうがらん)と称される七つの建物があり、その一つ、僧侶が食事をする建物を「食堂(じきどう)」といいます。

 七堂伽藍は古くは独立した建造物だったようですが、そのあとは宗派などによって、いろいろに変化していきました。

 食堂での食事は、食物に感謝することと、食事を通して、自己を磨くことが目的です。食事は、自身の命を保つだけではなく、仏道修行の一環として、重要なものでした。食事を作ることも修行であり、食べることも修行である、と考えられていたのです。全ての食物は、動植物の命です。

 現在でも禅寺の食堂では、規律の厳しい厳粛な場所となっております。

 自覚

 

「スーツを着て初めて社会人になった自覚を持つことが出来た。」と言ったような使い方ができ、

 自覚とは自分自身の置かれている状態や自分の価値を知ることをいいます。また、「自覚症状」などというように自分で感じることを意味する日常語としても使われます。

 仏教では、「覚」は「さとる」ことですから、「自覚」はみずから覚ることです。 さらに、みずから覚るだけでなく、教えを説いて他人を覚らせることを「自覚覚他」といいます。これは菩薩の実践行です。

 仏さまとは、自らの煩悩を断ち切って迷いを離れ、真実の因果の道理を知り尽くして、あらゆる命が互いに支え合って一つの大きな命の営みをしていると知る智慧を完成します(自覚)。そうして、あらゆる命を平等で尊いものと敬い、また慈しみの心を起こして、未だ煩悩を抱えて苦悩する者には安らぎを与えていこうと慈悲の活動(覚他)をしていくのです。そうした真理に目覚めた生き方を常に実践されている方を仏さまというのです(覚行窮満)。つまり仏さまに成るとは、そうした真理に目覚めた生き方(智慧をもって慈悲の活動)をする者に成るという事です。

 慈悲

 

 慈悲の、「慈」はサンスクリット語で「マイトリー」といい、友から派生した言葉で、最高の友情のことを言います。「慈」は、相手の幸せを願う気持ちです。慈の心は、怒りがあるときは生じないそうです。怒りがないときだけ、相手の幸せを願うことができます。

 「悲」は「カルナー」といい、呻きのことで、哀れみや情け、道場を意味する言葉です。「悲」は、相手の悩み苦しみを取り除いてあげたいという気持ちです。

 仏や菩薩が世の中の全ての人々に対して、苦を抜き楽を与えたい「抜苦与楽」(ばっくよらく)と言う心を現わしたものです。

ここから自分以外の他者を、慈しみ、情けをかけ、思いやるという意味で使われるようになりました。また、現代の日本では自分よりも目下の人や、立場の弱い人に対して何かをしてあげたいという気持ちが「慈悲」として使われます。

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