入唐求法
最澄没後の比叡山は多くの問題が山積みになっていました。特に空海の真言宗が密教の専門教団として、世に名声を高めつつある平安の時代、天台宗における密教部門の充実は最大の課題でした。
承和5年(838年)円仁は唐へ向かう遣唐使船に乗っていました。円仁は入唐に先立って見た不思議な夢を思い起こしていました。その夢とは師である最澄から、唐に渡って今一度真言の法門を学んで来てほしいというものでした。この夢の師の言葉で円仁は入唐を決意しました。
円仁は天台山、そして五台山を巡礼しました。そのかたわら仏道に励み、数年後円仁は中国僧の義真から灌頂を受けることになりました。円仁は大興寺の元政から金剛界を、そして青竜寺の義真から胎蔵界・蘇悉地界の大法を授かりました。三部の大法を受けた日本僧は円仁が初めてでした。10年にわたる唐での仏道修行を終え円仁は帰国の途につきました。円仁が唐から持ち帰ったものは密教だけではなく、五台山で引声念仏を学び、これを日本に伝えています。引声念仏は、やがて日本仏教の大きな柱となる念仏思想発展の足がかりとなりました。
天台密教の大成
天安2年(858年)最澄のもう一人の弟子である円珍が唐より帰国し、伝えることで比叡山の密教は大いに盛んとなりました。最澄の悲願はこの二人の弟子により果たされたのです。
月日は流れ、比叡山山麓にある園城寺にある円珍の部屋で、
弟子の安然が「法華経と大日経ではどちらが優れていますか?」と尋ねました。
円仁は「どちらの経典も理論的には優劣がないと考えられているが、わたしは大日経のほうが法華経よりも優れた経典だと思っている。しかし、人によってどちらが正しいということはない。仏道修行はこれでいいということはないので、求法の心を決して忘れてはいけない。」と弟子に述べました。
その後、安然は比叡山の五大院に隠棲して勉学に励み、天台密教を大成させました。
加持祈祷化した真言密教
承平5年(935年)関東で平将門の乱が勃発しました。また天慶2年(939年)には瀬戸内海沿岸で藤原純友の乱が起こりました。これらの乱は朝廷に大きな衝撃を与え、比叡山と高野山では鎮護国家の祈祷が休みなく行われていました。
朝廷では真言密教と天台密教ではどちらが呪力に優れているのかという話が話題となっていました。空海が亡くなってから真言密教の力が弱くなったと思われていましたが、その後に真言密教は小野流と広沢流の二派に分かれ、呪力を競い合っていました。そこで朝廷はこの二つの派と天台密教を競わせどちらに軍杯が上がるのかを検証しようとしていました。