第五十四回コラム「日本仏教の歴史 part4」

政治に癒着した仏教

 

 考謙上皇が東大寺の向こうをはって西大寺を立てることとなった際、女帝であった考謙上皇といろいろと噂されていた道鏡が関わっていました。

 道鏡は若いとき、山林で修行し呪験的な能力を得たと言われています。それによって宮廷の道場の禅師に任じられました。ある時、考謙上皇が病に倒れ、道鏡の宿曜秘宝によって病を治しました。以後、道鏡は上皇から特別に目をかけられ出世の道を歩み、ついには法王のくらいにまで登ったのでした。

 西大寺を仕切っていた道鏡に目をかけられるため、西大寺に移ってきた僧侶はしばしばおべっかを使って取り入るのでした。道鏡を喜ばすために僧侶たちは、様々な贈り物を贈り、また弟子たちは人々に道鏡の威徳をふれ歩きました。

 七六五年に考謙上皇は淳仁天皇の大権を奪い、みずから称徳天皇となりました。神職たちは道鏡を天位につかしめば天下天平ならんと称徳天皇に直訴しました。道鏡は天皇になろうという野心も持っていたのです。神職たちが急に道鏡を持ち上げ始めたことに疑問を持ち、称徳天皇は和気清麻呂を勅使として宇佐に遣わし、神託の確認をさせたところ、「道鏡の出世を手助けすれば我らも出世できる」などと話しているところを聞かれたことにより、道鏡の野心は絶たれ、神職たちは流罪となりました。

 七七〇年に称徳天皇が亡くなると道鏡は都を追われ実権を失いました。

 

 

真の仏教を求めて

 

 七八五年四月、東大寺に一人の青年が東大寺戒壇院で授戒を受け出家者となりました。その青年とはのちの最澄でした。東大寺で授戒を受けたものは南都六宗の学派で勉強することが一般的でしたが、最澄は新しい仏教を求めて比叡山に入ることを決めました。比叡山には大勢の山林修行者が住み、修行に明け暮れていました。

 最澄は山林の奥深に入り、「仏教の最高の心理を求めるために、五つの願いを立てる。悟りの美味を一人で飲まず、安楽の果を独り占めせず、この真理の世界に生きる一切衆生とともに仏の悟りの位にのぼり、この真理の世界に生きる一切衆生とともに仏の悟りの素晴らしい味を楽しみたい」と宣言しました。

 修行する最澄の周りにはいつしか他の修行者が集まり一つのグループをなすようになりました。そして最澄は多くの同志たちとともに一乗止観院を建てました。その中に最澄は等身の薬師如来像を刻んで安置しました。

 八百八年、高尾山寺において和気弘世と真綱に招かれ、「法華経」の講義を南都の大徳数十人に向けて行いました。その後しばらくして和気弘世と真綱の兄弟が比叡山にいる最澄を訪れ、天台宗を開いてほしいと頼みました。最澄は「そのためには唐での勉強が必要だ」と言ったため、和気弘世と真綱の兄弟は手配することを約束し比叡山を後にしました。

 

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