仏教伝来
西暦五三八年、百済の聖明王の使者が仏像・仏具・経典を持ってやって来ました。使者は聖明王からの手紙を天皇とその臣下に聞かせました。手紙の内容は「仏教は素晴らしい教えで、ご利益も大きく、多くの国で採用されています。」といったものでした。
天皇は仏教に興味を持ちましたが、信じていいか悩んでいました。そこで臣下である蘇我稲目に聞いたところ「仏教を信奉している。」と答え、崇仏論を主張しました。しかし、物部尾輿と中臣鎌子は「日本には固有の神が存在するので、外国の神を崇拝するべきではない。」といった排仏論を主張しました。
天皇は蘇我稲目に仏像を渡し、「ためしに仏像を安置し拝んでみよ。」と伝え、蘇我稲目は家に持ち帰り仏像を安置するために小さな伽藍(寺院)を建て、一族は朝夕仏像の前に集まり、手を合わせ礼拝しました。
しかし、しばらくすると国中に疫病が流行しました。疫病の流行の原因は外国の神を拝んだせいだと言われ、仏像は処分され、伽藍は焼かれてしまいました。
仏教の再来
それから三十年後の西暦五八四年に蘇我稲目の子である蘇我馬子が百済から仏像を持って来て、我が家に立派な伽藍を建てました。民衆はまた疫病が流行るかもしれないと危惧しましたが、蘇我馬子は「仏像の祭り方を知っている修行僧を三人連れて来たから大丈夫だ。」と答えました。
しかし翌年、天然痘が流行し人々があちらこちらで死んでいきました。敏達天皇は仏像を処分することを決め、また三人の僧には民衆の前で鞭を打たれたり、石を投げられたりといった罰が与えられました。しかし疫病が治ることはありませんでした。さらに蘇我馬子も疫病にかかり、蘇我馬子は「自分の病気を治すために三宝に帰依することを許してほしい。」と天皇に申し出て許しを得ました。蘇我馬子は再び寺を建て、三人の僧をかえしてもらいました。
西暦五八五年、用明天皇が即位しましたが、翌年に天皇は病にかかり、その病気平癒のため病床から三宝帰依を表明されました。つまり仏教がはじめて認められることとなりました。
しかし物部氏は天皇の三宝帰依に対しても反対し、やがて用明天皇が崩御すると蘇我馬子は物部氏をうつために戦を仕掛け、蘇我馬子は勝利を収めます。この戦いで仏教反対勢力を壊滅させました。
反対勢力を排除し、三人の僧は日本に仏教をしっかりと根付かせるために、仏教の基盤である戒を学びに百済に戻ることを決意しました。こうして五八八年に三人の僧は百済の使節団について海を渡っていきました。