第十七回コラム「栄西の生涯について」

日本に禅と茶をもたらした栄西の生涯

 

今回は日本に茶と臨済禅を広めた栄西の生涯について説明していきたいと思います。

 1 日本での修行時代

 2 中国の仏教

 3 再度中国へ

 4 禅で国を護る

 

 1 日本での修行時代

 保延七年(1141年)に栄西は備中の吉備津宮に神官の息子として生まれました。幼名は千寿丸といい、幼少期は仏教にも通じていた父に神官の勉強と仏教の基礎を教えられ、生まれつき利発でものごとの本質を見極める力を備えていた千寿丸は、しだいに仏の道へ惹かれていきました。千寿丸が十一歳の頃に出家し、父の友人である安養寺の静心を師事し、天台宗の僧であった静心は千寿丸に天台密教の基礎を教え込みました。そして十三歳の時に千寿丸は比叡山に登り落髪し、正式の僧となって栄西と名乗るようになりました。栄西は比叡山と備中の安養寺を往復しつつ修行に励みましたが、栄西が十七歳の頃に師である静心がこの世を去りました。栄西は兄弟子の千命について天台密教を深く学び、やがて千命から虚空蔵求聞持法を学びました。これは空海も若き日に修行したと言われる法で、同法を修すれば頭脳が明晰になり記憶力が増大し、そのほかにも無数の効験があると言われていた法でした。

 平治元年(1159年)の頃になると栄西は比叡山で学ぶこととなりましたが、平安末期の比叡山には様々な争いや腐敗が渦巻いており、公家社会と寺は癒着し貴族出身の僧侶が仏教界の地位と権力を握っていて、女性との関係も暗黙の了解といった風潮にありました。心ある僧は腐敗にまみれるのを嫌って比叡山を下り、仏道を歩む者として信念を固く守っていました。そんな寺領の農民たちは不満を爆発させ、暴動が起こり比叡山は混乱の極みで大いに揺れていました。栄西は日本仏教の中心である比叡山がどんどん悪い方向に向かって行くことを嘆きながらも、栄西が中国の宋で本場の仏教を学ぶことで解決の糸口が見つかると信じ、この志を胸に栄西は修行に励み、任安三年(1168年)二十八歳の時に栄西は博多をたち宋に向かいました。

 2 中国の仏教

 宋に向かって三週間後、栄西は明州にたどり着き修行のため天台山に向かいました。天台山に向かう途中、偶然にも俊乗房重源(のちの東大寺勧進職)に出会い、これ以降帰国までの半年間を栄西は重源と行動を共にしました。

 天台山に着くと、真覚寺で天台宗の始祖である智者大師の塔(智者大師とは天台大師智顗のことで、法華経にもとづく教理と実践をそなえた総合的なその仏教は九世紀初頭に入唐した最澄によって日本に伝えられた)に向かい、拝礼しました。

 天台山を後にした栄西と重源は阿育王寺に向かい、そこで宋の時代に中国仏教の中心であり、天台宗の総本山ですら重きを置いていた禅を学びます。後年栄西は宋における禅の一日を「興禅護国論」で紹介しています。

 禅の一日の中で長時間座禅をしていると、つい眠気が押寄せてきます。そんな時にお茶を飲むと眠気が失せることから、中国の禅の修行においてお茶は欠かせないものとなっていました。栄西は後年の有名な著作「喫茶養生記」に茶は眠気を払い健康にもいいと書き記しています。

 仁安三年に栄西と重源は六ヶ月の滞在の後に宋をたちました。帰国した栄西はまず比叡山に向かい、第五代天台座主の明雲に天台章疏六十巻を進呈しました。明雲は栄西のよき理解者であり後援者でしたが、比叡山には栄西の才を妬む者も数多くいました。栄西は比叡山の現実に絶望し両親のもとへ帰郷後、近隣の備前・備中を中心に布教活動を始め、密教の思索実践に努めましたが、禅の教えはまだ準備段階なのでした。

 

 3 再び中国へ

 安元元年(1175年)栄西は新しく創建された誓願寺の導師として迎えられ、以後十二年間をこの地で過ごし、数多くの書物を著しました。文治元年に京都は凄まじい干ばつに見舞われました。時の執権である後鳥羽天皇が栄西の著した書物を読んだことから、栄西を召喚し、雨乞いの祈祷を行わせ、見事雨を降らせることを成功させた栄西はこれを記念して葉上という称号を与えられました。こうして都でその名をはせた栄西でしたが、再び宋の地を訪れることが兼ねてからの念願でした。

 文治三年(1187年)栄西は再び入宋し、目的としていた天竺に向かおうとしましたが、当時中国からインドに入国するルートはいずれも蒙古の勢力下にあったことから断念し、再び天台山に向かいました。天台山に着くと栄西は虚庵懐敞を師事し、帰国するまでの四年間、禅の修行に没頭しました。この間熱心に修行に励む一方で栄西は宋の仏教に数々の貢献をしており、天台山の修理費を出したり、景徳禅寺の仏閣を修理するため日本へ帰国後に良材を送ったりしました。

 建久二年(1191年)栄西は虚庵懐敞より正式に臨済宗黄龍派の法を継ぎ、日本に帰国しました。

 

 4 禅で国を護る

 日本に戻った栄西は九州を拠点に精力的な布教活動を展開し、建久三年には筑前に建久報国寺を創建し、日本初の菩薩大戒の布薩を執り行うなどいまや栄西は日本の禅のパイオニアとしての地位を築き上げつつありました。しかし新しい仏教勢力の台頭をおもしろく思わない比叡山は朝廷に禅宗禁止を訴えでたことにより、栄西に禅は禁止の宣旨が下され京での布教ができなくなったことから九州へと戻りました。建久六年(1195年)博多に日本初と言われる禅寺、聖福寺を創建し栄西は九州の地で布教活動を続けました。

 正治元年(1199年)鎌倉にむかった栄西は、幕府に歓迎されたものの武家社会から禅僧としての栄西ではありませんでした。栄西は北条政子に目をかけられ、幕府の不動尊供養の導師を勤めました。当時公家社会に対抗できる新たな文化を探していた鎌倉幕府にとって栄西は貴重な存在であったことから、正治二年(1200年)源頼朝の一周忌法要で栄西は導師を勤め、これにより栄西がいかに幕府に重んじられているかを世間に知らしめることとなりました。まもなく北条政子は寿福寺を創建し栄西が開山となりましたが、栄西は積極的に禅宗の教えを広めようとしませんでした。幕府の希望は法会を取り仕切る天台密教僧としての栄西であったこと、また栄西も頼朝亡き後で政情が安定しない幕府にどれだけの外護が期待できるかが不安があったからでした。

 建仁二年(1202年)二代将軍に就任した源頼家は京都に建仁寺を創建し栄西を開山としたことにより、栄西は京都復帰のきっかけとなりました。朝廷の宣旨を得た栄西は禅と天台と真言の院を設け、比叡山に代わる仏教の総合道場の始まりとするために栄西は「日本仏教中興願文」を書き記し、栄西が六十五歳の時、建仁寺は官寺となりました。

 建永元年(1206年)宋で日々を共にした重源が入寂し、その後勅命により栄西は重源の後を継いで東大寺勧進職となりました。晩年の栄西は公家にも武家にも認められ順風満帆で、京都と鎌倉を往復する生涯現役の僧侶として活動を続けました。

 承元五年(1211年)に「喫茶養生記」を執筆し、建保三年(1215年)日本に禅と茶をもたらした日本臨済宗の祖、栄西は入寂しました。

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