第六十六回コラム「日本仏教の歴史 part16」

日蓮 佐渡への流罪

 

 文永8年(1271年)9月、突然幕府は日蓮と主だった弟子を捕らえると、馬に乗せ鎌倉中を引き回しました。そして夜中に日蓮の首を斬るために竜ノ口に連行しました。日蓮の首を斬ろうとした瞬間に落雷が落ち、日蓮は死を免れました。死罪を許された日蓮は佐渡に流罪となりました。

 しかし門弟たちの多数が牢に閉じ込められたため、多くの信者が恐ろしさのあまり日蓮教団をさってしまいました。日蓮は風波が激しく、荒れ狂う日本海を佐渡へ渡りました。そして小さな仏堂に捨てられたかのように閉じ込められました。

 文永9年(1272年)日蓮は飢えと戦いながら「開目抄」、「観心本尊抄」などを執筆し続けました。また村人からの差し入れもあり日蓮はようやく流刑の暮らしに慣れ始めました。また日蓮は大曼荼羅本尊を描き本尊として仏堂に祀りました。

 文永10年(1274年)についに幕府から赦された日蓮は佐渡を後にしました。鎌倉に戻った日蓮はさっそく幕府に呼ばれ尋ねられました。

 幕府は「蒙古軍が攻め入るのはいつか」と日蓮に尋ねると、

 日蓮は「間近です。この大難を逃れるためには法華経の信仰によって万民の心を一つにしなくてはなりません」と答えました。

 しかし幕府は「あいかわらず法華経のことだけか」という答えでした。

 日蓮は幕府に愛想を尽かし、甲斐国の身延山中に入りました。そこには周囲に高山が連なり、富士川が流れる美しい場所でした。日蓮は深い谷間を美しく流れる渓流のそばに粗末な草庵を建て、法華経を毎日読む生活に入りました。

 しかし夏が去ると環境は一変し、寒風と大雪が草庵を襲いました。日蓮の生活はまた佐渡の地獄の生活に戻ったようでした。それでも日蓮と弟子たちは題目を唱え続け、苦難を乗り越えていきました。

 

 日蓮 入寂

 

 文永11年(1274年)10月、人々が恐れていた蒙古襲来が現実となりました。日蓮は身延山で続々と入る蒙古襲来の情勢を法華経信仰の体験で分析し、門弟たちの指導を進めていました。 まもなく蒙古の兵は台風のために壊滅し去っていきました。

 弘安2年(1279年)無学祖元が宋より来朝し建長寺に住んだ頃、一編が信濃で踊り念仏を始めました。弘安4年に再び蒙古が襲来しましたが、その際も大暴風雨のため再び敗退し去っていきました。

 弘安59月、日蓮は身延山で重病に伏してしまいました。弟子たちは日蓮を馬に乗せある時は背負って常陸の温泉へと向かいました。ですが、途中の武蔵国池上(現在の東京都大田区)にある信者の館で病身を横たえました。日蓮は弟子たちを枕元に招き一人一人の名前を呼び布教に身命をかけよと言い残し、日蓮は入寂しました。

 同年建長寺の祖元は円覚寺の開山となり、北条時宗はじめ鎌倉武士の真剣な参禅を受けました。日蓮臨終の折、京都での布教を委嘱された日像は永仁2年(1294年)日蓮十三回忌を期して上洛し、折伏弘通に専念しました。そして洛中追放三度におよぶ法難の中、日蓮宗の教線を拡大していきました。

 正安元年(1299年)永平寺三世徹通羲介の方を継いだ瑩山紹瑾は加賀大乗寺にて曹洞宗の拡大に努め、後年瑩山は総持寺開山となり、曹洞宗の中興の祖と呼ばれました。

 こうして鎌倉時代に興った新しい仏教運動は実を結び、その法灯は現在までも脈々と受け継がれています。

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