第六十五回コラム「日本仏教の歴史 part15」

 開宗宣言

 

 建長5年に日蓮は故郷安房国の旭ヶ森で海からのぼる美しい朝日に向かって題目を唱えていました。日蓮は法華経の信仰によって末法のと言われる混乱の世を救うために、旭ヶ森を下り清澄寺へ向かいました。

 清澄寺には日蓮の話を聞こうと、多くの僧侶たちが集まりました。日蓮はその場で「念仏を唱えることをやめてください。武士が世の邪悪を取り除き民衆を救うように、法華経もまたその信仰の実践を通じてそれを実現します。真実に目覚め南無妙法蓮華経と唱えてください」と話し、日蓮は開宗宣言を行いました。

 しかし日蓮の開宗宣言を聞いた、熱心な念仏信者であった東條景信の反感をかいました。切り捨てられそうになった日蓮はなんとかその場を逃れ、故郷安房にいる父母のもとに立ち寄りました。父母を日蓮宗の最初の信者にし故郷を後にしました。日蓮は鎌倉に移り、名越松葉谷の草庵に住み街頭で辻説法をし、布教に努めました。このころから多数の鎌倉武士が信徒となり、日蓮一門が形成されました。

 正嘉元年(1257年)に大きな地震が起こり、地震の後を襲うように長雨が続き洪水で家が流され、疫病が流行しだました。日蓮は大災害の原因とこれからの対策を研究するため、駿河国岩本の実相寺の経蔵にこもりました。

 

 

 蒙古襲来と末法の終焉

 

 文応元年(1260年)に日蓮は考えをまとめた「立正安国論」を前の執権者である北条時頼のもとに差し出しました。「立正安国論」には念仏を禁止することが書かれており、日蓮が念仏禁止を北条時頼に進言したことは瞬く間に鎌倉に知れ渡りました。日蓮は松葉ヶ谷の草庵で武具に身を固めた念仏の信者に襲われましたが、あやうく難を逃れ下総国に逃れました。

 弘長元年(1261年)日蓮は再び鎌倉に戻り、題目を唱えて辻説法を再開しました。しかし聴衆のかわりにたちまち役人が日蓮を取り囲み、ついには逮捕されて伊豆の伊東に流罪となりました。

 弘長3年(1263年)日蓮は赦免されて鎌倉に戻ってきました。

 文永5年(1268年)には蒙古が友好関係を強要し、服属を求めてきました。もし承服しなければ武力侵略を辞さないとの書簡が届きました。幕府は慌てて西国の防備を固めました。うわさは鎌倉の町中に広まり、人々は不安に陥っていたところ、日蓮は怯える人々の中でただひとり元気に満ち溢れた大声で南無妙法蓮華経の題目を唱えようと人々に説き歩いていました。

 同じ頃、奈良の西大寺にいた叡尊は、大阪の四天王寺に入って難を払うために種々の務めを行なっていました。叡尊は三日三晩、護摩による祈祷を続けました。また米や野菜の食料を持って和泉久米寺に赴き、下層の人々に対して施行をして彼ら全てに菩薩戒を授けていました。鎌倉では叡尊の弟子の忍性が極楽寺に住んで、師と同じく罪人や難民の救済に勤めていました。貧しい人々は「忍性菩薩さま」と彼を呼んでいました。

 一方日蓮は、忍性の活動の周辺で強気の伝道を続け彼らを非難しました。文永8年(1271年)忍性は「日蓮を早く逮捕して邪見を破って正義を興隆してほしい」という訴状を幕府に提出しました。日蓮はさらに激しく彼らを批判し、幕府の圧迫に対抗するように強気の布教を続けました。

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