弁円 東福寺を開く
仁治2年(1241)栄西の門流にあった円爾弁円は宋より帰国しました。弁円は博多に着くと、崇福寺と承天寺を相次いで開いた。禅宗は邪道だと言われていたご時世に、弁円は比叡山の圧迫を恐れることなく、自分の禅宗の立場を鮮明にしました。弁円は彼らに負けることなく坐禅を続けていたために、その名声が京にまで伝わっていました。
時の権力者であった九条道家邸では東福寺の開山に相応しい人物を探していました。その際弁円の名があがり、弁円の幅広い学問知識・教養を高く評価されていました。
寛元元年(1243)弁円は上京し、創建されたばかりの東福寺の開山となりました。
永平寺建立
臨済宗の東福寺は道元の興聖寺教団を圧倒する勢いでした。道元は「護国正方義」を朝廷に呈上しました。しかしそれは功を奏せず、逆にそれを聞いた比叡山僧徒の反発を招くこととなりました。
こうした迫害にあい、道元はついに深草を離れざるを得なくなってしまいました。道元は波多野義重の所領が越前国志比庄にあることと元達磨宗の徹通義介と懐鑑がいることを理由に、複数の門弟と随行しました。道元一行が落ち着いた先は、志比庄吉峰寺でした。その後に大仏寺を建立し、道元は門弟らと共に只管打坐に打ち込みました。
寛元4年(1246)大仏寺は永平寺と名を改め、山中とはいえ伽藍も徐々に整い、禅の道場らしい風格となっていきました。門弟たちは坐禅を中心にした僧堂の生活をいきいきと送っていました。道元は「正法眼蔵」の完成を目指しました。
蘭渓道隆 宋より来朝
寛元4年(1246)宋の臨済宗の僧である蘭渓道隆は日本に活躍の場を求めて来朝し、旧知の月翁知鏡のいる泉涌寺を訪れました。
宝治2年(1248)道隆は鎌倉に下り、栄西開山の寿福寺に入りました。その後に常楽寺に移り、北条時頼と相見しました。その際に道隆の純粋禅の考え方を気に入った北条時頼は、建長5年(1253)道隆に帰依し、禅寺の建立を思い立ち建長寺を開きました。
道隆は建長寺に宋朝禅林の風をそのまま移入し、厳格な禅風を起こしました。これ以後、禅寺では定められた厳しい規則が守られるようになり、日本臨済宗発展の基礎が固められました。
同じ頃、日本曹洞宗の開祖道元は京都の在家の邸で病に伏し入寂しました。