第五十九回コラム「日本仏教の歴史 part9」

 浄土真宗をひらく

 

 法然(浄土真宗の開祖)は長承2年(1123年)に美作国久米南条稲岡に生まれました。幼名は勢至丸で久米の豪族である漆間時国の一子でした。9歳の春に勢至丸の運命が一変する事件が起こりました。父の時国が夜討ちにあい、一命を落とす深手の傷をおってしまったのでした。

 父は勢至丸に「敵を恨むな。仇を討てば今度は相手がお前を敵と思って争いは果てることがない。出家してわたし(時国)の菩提を弔ってほしい。」と最後の言葉を残しました。父の遺言に従い、勢至丸は13歳で比叡山に登り、源光に師事しました。2年後、皇円のもとに入室した勢至丸は、15歳で授戒し正式の僧となり、法然と名乗るようになりました。

 久安6年(1150年)法然は比叡山の別所である黒谷に移り叡空に師事しました。

 時代はまさに末法でありました。保元24年(1156年)には崇徳上皇と後白河天皇兄弟が両陣にわかれ、それぞれ武士を味方に骨肉の争いをするという保元の乱が、京の町を舞台に繰り広げられていました。また天災や飢饉が相次ぎ、疫病まで流行しておりました。

 そんな末法の時代を救うべく、法然は南無阿弥陀仏を称えることで苦しみや迷う凡夫を救うことができると確信し、法然は比叡山を下り東山大谷に吉水の庵を構えました。念仏を称えれば浄土に往生できる。その言葉を聞いて法然のもとには庶民をはじめ、貴族や武士、僧侶など様々な人が集まりました。

大原談義

 

 文治2年(1186年)京都大原の勝林院にて法然は念仏の教えについて集まった聴衆に話はじめました。聴衆は法然の話に聞き入り、論議は一昼夜におよびました。大原談義を契機として法然の名は、次第に世間に知られるようになりました。弟子や信者が増え、法然の教団が力をつけるにしたがってそれを敵視する動きも出てきました。

 元久元年(1204年)比叡山の僧侶たちは天台座主真性に専修念仏停止を訴えました。翌年には興福寺の僧たちが念仏禁止を朝廷に訴えでました。

 そして建永元年(1206年)法然の弟子の安楽と住蓮が中心となって、京都鹿ヶ谷で念仏行を行った際、その場にいあわせた後鳥羽上皇の院の女房が発心して尼になってしまう事件が起きてしまいました。怒った後鳥羽上皇は、翌承元元年に安楽と住蓮を死罪に処しました。そして法然は四国の讃岐国(香川県)に流罪となってしまいました。

 法然は「地方に行って念仏を勧めることは兼ねてからの念願であった」とのべ、流罪の処断を受け入れました。

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