末法到来
正法の時代(釈迦入滅後千年)釈迦の教えが正しい形で残っており、それに従って修行する者がおり、そしてその結果さとりを開く者がある。
像法の時代(釈迦入滅後千一年~二千年)教えと修行はあるがさとりはなくなる。
末法の時代(釈迦入滅後二千一年~一万年)教えだけがあり、修行するものもさとりを開く者もいない。
永承7年(1052年)末法時代が到来しました。時あたかも前九年の疫のまっ最中で、時代は乱世の様相を呈していました。この年、関白藤原頼通は宇治の別荘に寺を建て、平等院と号しました。そこに建てられた阿弥陀堂はあたかも極楽浄土を現出させたかのようでした。都では疫病が流行し、治安が乱れ、僧兵が横行していました。南都では興福寺の僧兵が東大寺を襲い、また京では延暦寺と園城寺の争いが日頃から絶えず行われていました。
末法の危機意識
末法到来とともにその危機意識をバネに、独自の念仏思想を展開した3人の高僧がいました。
永観(1033~1111年)
11歳のとき、禅林寺において出家し、東大寺に学び将来を嘱望されたが、33歳の時に山城国・光明山に隠棲し、のちに禅林寺に帰住しました。一説によると永観は毎日、一万遍の念仏を称えたという観想の念仏ではない口称の念仏をすすめました。
また永観はこんな伝説が残されています。承徳4年(1100年)に永観は東大寺の別当に任ぜられたが、これを3年で辞退し禅林寺に逃げ帰ってしまいました。この時永観の夢枕に阿弥陀仏が立ち、「永観が禅林寺に帰るなら、私もついて行く」という夢を見ました。東大寺の僧が仏像を奪い返さんと追ってきても、決して永観の背を離れなかったと伝えられる。またある夜、永観が須弥壇の回りを念仏行道していました。ふと気づくと自分が先導する影があった。それは御本尊の阿弥陀如来であった。おどろいた永観に「永観おそし」と言われたという。その瞬間の阿弥陀仏が刻んだのが、この見返り阿弥陀如来である。
良忍(1073~1133年)
12歳の時に比叡山に登り、常行三昧堂の堂僧となったが、当時の比叡山の風紀の乱れを嘆き23歳の時に山を下り、大原に来迎院を建てて隠棲した。46歳の時に阿弥陀仏より融通念仏の示現をを受けた。融通念仏とはひとりで念仏を唱えるより、多くの人が称えてお互いに融通してあって往生しようという思想です。
覚鑁(1095~1143年)
13歳ので仁和寺に入って密教を学び、その後に南都で勉学を重ね、高野山に入りました。覚鑁の教えは、口に阿弥陀仏の真言を称えれば、この娑婆世界がそのまま浄土となり、人は仏となることができるというものでした。
1143年に49歳の若さで亡くなりました。その後に弟子たちの努力で覚鑁の教えは全国的に広まり、1288年、弟子の頼瑜は高野山にある大伝法院 密厳院を根来寺に移し、新義真言宗の教学を大成させました。
かくして真言宗は高野山を本山とする古義真言宗と根来寺を本山とする新義真言宗に分裂しました。こうして阿弥陀仏による衆生救済の理論は少しずつ整いはじめやがて大輪の花を咲かせることになります。