一切衆生皆成仏
10世紀中頃、ちまたには乱世の兆しがあらわれはじめ、加えて地震に洪水、疫病の流行など物情騒然としていました。
応和3年(963年)比叡山では火災で焼けた堂塔伽藍はいまだに完全に復興しておらず、仮の建物や焼けたままの建物がいたるところにありました。
そのような時代の中で、良源は「仏教の根本精神を忘れ、密教と馬鹿騒ぎしていた報いだ。誰でも仏になれるという法華経の精神に帰らねばならない」と考えていました。
ある日良源は村上天皇の宮中に呼ばれ、天台宗と、奈良仏教の代表10人と論議の場を持ちました。論議に参加していた奈良仏教の法蔵は「この世の中には成仏できないものがいる」と述べました。それに反論した良源は「一切衆生皆成仏で、誰もが皆成仏できる」と述べました。二人の論議は果てしなく続き、天皇は二人の議論に満足し、特に良源の論に深く感心されました。
往生要集
寛和元年(985年)、良源は極楽往生を願いつつ南無阿弥陀仏を唱えながら示寂しました。弟子である源信は悲しみに暮れていました。源信は天慶5年(942年)大和国(奈良県)に生まれ、9歳で比叡山に登り良源の弟子となった。学才をうたわれたが、名利を嫌い、横川に隠棲していました。そして師の良源が示寂した寛和元年、源信は日本浄土教の基礎をつくった金字塔的著作「往生要集」を著した。
源信は娑婆世界を「地獄界」、「餓鬼界」、「畜生界」、「阿修羅界」、「人間界」、「天界」の6つの世界からなり、そのいづれの世界も苦しみの世界であると説きました。
良源は自らの修行によって行う自力の「聖道門の仏教」に対して、凡夫もまた念仏を称え、阿弥陀仏を思い浮かべながら仏の救いを得る、他力の「浄土門の仏教」というものがあると考えていました。この考え方に賛同した僧は、源信をリーダーに毎月、首楞厳院に集まり夜を徹して念仏三昧を修しました。