第五十三回コラム「日本仏教の歴史 part3」

行基菩薩

 

 西暦七一〇年、都が平城京(奈良)に移されました。平城京は唐の都である長安をまねてつくられたもので、京都の中央を北から南へ朱雀大路が通り、町は碁盤の目のように整えられました。

 町の工事中に現場に行基菩薩が来るということで皆が集まり、行基菩薩は

 「道を作ることは新しい国づくりの重要な仕事です。力を合わせて橋や道を作ることは仏教の実践にあたります。それによって多くの人々が救われ、仏教は人々を救うのです。必ず皆さんは大きな功徳を得ることになるでしょう。」と述べました。

 しかし、七一七年に元正天皇は行基菩薩の行動を禁じる詔を発しました。行基菩薩とその弟子たちは街路に集まりみだりに法を説き流言し、それを聖道と称して百姓を惑わしていると考えられたからです。詔が発せられたため、僧たちの演説は固く禁止され、それでも行なった場合は重く罰せられましたが、僧たちの演説がなくなることはありませんでした。

 七三一年、聖武天皇は行基菩薩の集団のうち男六十一歳、女五十五歳以上の者の出家を許可しました。それに該当する老人たちは頭を丸め、新しい衣を身につけ喜びいっぱいでした。

 七四一年には、国分寺建立の詔が発せられ、諸国に国分寺を建立するに先立ち総国分寺として都に東大寺を建て、日本一大きな盧舎那仏を作る計画がたてられました。その任に就いたのが行基菩薩でした。

 

南都七大寺と南都六宗

 

 七五二年四月九日、東大寺で大仏の開眼供養が盛大に行われました。

 「あをによし 寧楽の京師は咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり」と万葉集に歌われているように奈良の都は繁栄しました。

 薬師寺・元興寺・大安寺・興福寺・東大寺・西大寺・法隆寺はのちに建てられた西大寺を含めて南都七大寺と呼ばれ、これらの寺院は奈良仏教のシンボルとなっていました。

 七五四年四月、唐からやって来た鑑真によって授戒が行われました。授戒を終えたものは南都(奈良)の各寺には六宗(六つの学派)があり、どこの寺で学ぶかは自由とされていました。

 南都六宗とは

・三論集  最初に日本に伝来した学派で、般若経の「空」の思想を説いたもの

・法相宗  玄奘三蔵を創始者とする学派で、唯識仏教を説いたもの

・華厳宗  東大寺を中心とする学派で、仏教の根本思想である「縁起」を説くもの

・律宗   樹海を授けた鑑真の専門である戒律を研究する学派

・成実宗  「成実論」を研究する学派

・倶舎宗  「倶舎論」を研究する学派

のことを指しました。授戒を受けた僧侶たちはみな希望に燃えていました。

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