釈徹宗(しゃく・てっしゅう)
前回までの書簡はこちらを御覧ください。
小出さん、こんにちは。返信が遅くなって、すみません。
中途半端キャンペーンですが、自分の中で「住職や研究者や教員、執筆活動やNPO活動など、どれにも全力を注げない」という忸怩たる思いがずっと続いていまして、それがすごくストレスなんですよ。どうも自分で思っていたより、根がマジメな人間だったようです。
長年この問題を抱えていたのですが、ある時「そもそも中途半端を目指すというのはどうか」と思い至ったわけです。そう考えると、今より活動を拡げられるかもしれないじゃないですか(笑)。だって、最初から「極める」を求めていないんですから。これは私のように、ついムキになる性格の人間には、いいキャンペーンかもしれません。今後は人から、「こんな中途半端なやつは見たことない」と言われることを目指そうかと考えています(これ、内田樹先生にご指南いただきました)。
■寺院運営と社会活動の合わせ技モデル
世界のお寺は、サンガの拠点であり、修行や修学の場であり、僧侶たちの生活の場です。日本にもそういうお寺はありますが、数多くのお寺はそこに“住職家族が暮らす場”という要素が加わります。日本のお寺の特性は、この「家族が暮らす」と「死者儀礼を基盤としている」を挙げることができるでしょう(同じ東アジアでも、道教が死者儀礼を担当している地域もあれば、儒教が担当している地域もあります。日本では長く仏教が担当してきました)。
家族で暮らしているので、日本のお寺には比較的明瞭にプライベート空間があるわけです。そういえば、「ポケモンGO」が世に出た時、友人の僧侶たちが「勝手にウチのお寺がポケストップになってる?!」と言っていましたが、それは“宗教施設は公共の場”という世界的な感覚からでしょうね。でも、日本のお寺はプライベート空間も有しているので、夜中に知らない人がポケモンを探して入って来ると、やはり具合が悪かったりするわけです(笑)。若いお嬢さんがおられるお寺もありますからね。
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