第三十八回コラム「比叡山と高野山 part1」

遣唐使船

 

 日本天台宗の開祖である最澄と、日本真言宗の開祖である空海は804年に同じ遣唐使船団で唐に渡りました。この時最澄は短期の留学生として通訳の義真を連れて遣唐使船に乗り込み、また空海は長期の留学生として遣唐使船に乗っていました。

 80476日に九州肥前国田浦(長崎県)を四隻の遣唐使船が出航しました。しかし、この当時遣唐使船は非常に危険が大きく、三隻に一隻は沈没したと言われていました。予想されたように四隻の遣唐使船は嵐に遭遇しちりぢりになってしまい、ようやく空海の乗った第一船は34日間の漂流ののちに福州(福建省)に漂着しました。そして最澄の乗った第二船は9月上旬に民州(浙江省)に到着しました。第三船と第四船はついに行方不明のままだった。船を降りた最澄は長安に登る一行と別れて天台山を目指しました。

 最澄は義真とともに天台宗総本山の国清寺にたどり着き、天台斬において智顗(天台宗の開祖)から数えて6代目の法孫に当たる湛然の弟子である行満から天台の教義を余すことなく学びました。

 半年にわたる修行を終え、最澄は天台斬を後にし、さらに密教を学ぶために越州(浙江省)の竜興寺を訪ねました。竜興寺でも修行を重ね、8055月に最澄を乗せた遣唐使船は唐の明州を出発し帰朝の途につきました。最澄はこの8ヶ月という短い滞在期間に天台の教学はもちろんのこと、密教や禅をも学び日本に伝えました。

 いっぽう空海は、密教を学ぶために唐の都の長安にとどまっていました。当時長安は世界有数の国際都市であり、空海は諸寺をめぐり文物に楽しみ世界の文化に触れ、それと同時に空海は勉学に励み、インド出身の二人の僧からインドのサンスクリット語を習いました。空海は寸暇を惜しんで勉強したことにより、空海の名声はまたたく間に長安の仏教界に響き渡りました。やがて青龍寺の恵果阿闍梨から密教を学ぶことになります。毎日、空海は経典を読み師について密教の教理を身をもって学んでいきました。密教の法統は頭に水を注ぐ灌頂という儀式によって伝えられます。空海は8058月に密教の全てを伝える伝法阿闍梨灌頂を受けました。儀式の終わったのちに、空海はたくさんの経典と仏画、法具などを恵果から授かりました。8068月に空海は恵果から授けられた密教をたずさえ、二年間の留学生活に終止符を打ち日本へ向かいました。最澄と空海のふたりが最初に出会ったのは日本に帰国した後の事でした。

 

 出会いと決別

 

 日本で出会った最澄と空海の二人は親しい交際を続けました。最澄は密教教典の借用と真言の受法を空海に懇願しました。そして何度も手紙のやり取りをし、意見の交換をし合いました。二人は南都の仏教も含めてあらゆる宗派はすべて一つに融合する必要があると考えていました。ふたりは共に仏さまの恩徳に報いようとする意見でした。しかし統一するものが何かに関して、空海はその原理を真言密教に求め、最澄は法華経に求めました。二人の立場は微妙な違いをきたすこととなりました。

 81211月に高尾山寺において、最澄は空海から密教入門の儀式である金剛界の結縁灌頂を受けました。そして同12月に、同じく高尾山寺において胎蔵界の結縁灌頂が行われました。しかし密教の阿闍梨となるための伝法灌頂は最澄がいくら頼んでも空海は容易に許可しませんでした。空海は伝法灌頂を受けるためには相当の修行(3年)が必要だと最澄に話しました。最澄にとって3年の修行はとても長く受け入れがたい期間でしたので、最澄が最も目にかけていた弟子の泰範を空海のもとに残し、最澄は法華経を広めるために比叡山に帰っていきました。最澄は比叡山に帰った後も空海に密教の書物を貸してもらうように頼んでいましたが、空海は最澄が書物のみで密教の心理を知ろうとしているように思えたため断るようになりました。

 空海に経典の借用を断れたことによって、二人の交友関係は遠のいていきました。それから2年後に弟子の泰範に「比叡山に帰ってきて、一緒に天台教学の布教に努めよう。」という手紙を送りましたが、泰範は空海のもとで真言密教を学びたいと言う思いが強く、比叡山に帰ることはありませんでした。

 これ以降、最澄と空海は完全なる絶交状態になってしまいました。

関連記事

  1. 【仏教伝道協会】第30回BDKシンポジウム「争わない生き方」

  2. 第3回葬儀・法要単語集 「香典の書き方やマナーについて」

  3. 第五十三回コラム「日本仏教の歴史 part3」

  4. 第8回葬儀・法要コラム「葬儀・告別式に参列した後の対応について」

  5. 第54回葬儀・法要コラム「相続の開始」

  6. 2024年 第十一回コラム じつは身近な 仏教用語 PART9