第二十七回コラム「インド仏教の歴史 part4」

仏像の誕生

 二世紀半ばカニシカ王は中央アジアから北インド一帯にかけて大帝国を建設し、この王の治世下クシャーナ王朝が最盛期を迎えました。首都プルシャプラは東西貿易の要衝にあたり、異民族が交錯するエキゾチックな都でした。カニシカ王は仏教に帰依し都の近辺に多くのストゥーパを建て、その一つにタフティ・バーイ寺院がありました。この寺院には仏像が置かれており、当時はお釈迦様の姿を図像に表してはいけないと言われていました。しかし、この寺院にはお釈迦様の姿がの像があれば在家の信者にもお釈迦様が身近に感じられるということで置かれていました。仏像は在家信者のために作られたと言われています。

 

民衆化された宗教

 四世紀から六世紀にかけてグプタ朝の王統は第十代まで続き、グプタ時代はインド文化の黄金期であり、グプタ朝の諸王が採用した宗教はバラモン教でした。聖なるガンジス河はヒンドゥー教徒たちの沐浴で賑わっていて、ガンジス河の水で沐浴すればあらゆる罪から免れ、死後この河に骨を流せば天界に生まれ変われると信じられていました。

 そのような時代に、一人の青年がガンジス河で沐浴をせず河を眺めていると、ある老人が「なぜ沐浴をしないのか。」と声をかけてきました。青年は「自分は仏教徒だから異教徒が一緒に沐浴すると嫌がれる。」と答えました。老人は「仏教徒とヒンドゥー教とは兄弟のようなものだ。」といいました。

 どうして仏教徒とヒンドゥー教徒が兄弟みたいなものかというと、インド宗教の歴史からくるものでした。インド最初の宗教はバラモン教であり業と輪廻の思想を説いた宗教で、このバラモン教が正統派宗教でしたが、お釈迦様が創唱された仏教は当時のバラモン教に反発した非正統派の宗教でした。バラモン教の祭祠主義に反対し自らは知恵による救済を唱道し、その教えは後に大乗仏教を生み出し民衆仏教になっていきました。バラモン教はエリート階層の宗教であり一般庶民には門戸が開かれていませんでした。お釈迦様が創唱された仏教は民衆の参加を求めたものでしたが、一方で仏教は出家主義を取っていたので民衆の参加は現実には無理でした。また後世の小乗仏教においてはその傾向はますます助長され、庶民に対してはバラモン教と同じく閉鎖的な宗教となっていました。そのような小乗仏教に対して大乗仏教は庶民に大きく門戸を開いた。つまり大乗仏教は民衆仏教であり、民衆仏教となった大乗仏教は仏像の製作を始めたのです。

 バラモンは知的階級であったので形態のない神を拝めましたが、知識人ではない民衆は形態のない神を拝めと言われても到底無理でした。そこで民衆は神像によって神を拝むことができると考え、バラモン教は神像の製作により庶民の宗教になりました。このように民衆化されたバラモン教をヒンドゥー教と呼ぶようになったのです。

 二つの宗教が兄弟みたいだと言ったのは、大乗仏教が民衆宗教ならばヒンドゥー教も民衆仏教であり、二つの宗教はインドの民衆の基盤の上に乗っているのです。

今回はここまでにします。次回Part5へ続きます。

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