前回に引き続きインド仏教の歴史について見ていきたいと思います。
仏典結集と大乗仏教の誕生
お釈迦様亡き後には遺骨(仏舎利)が残されました。人々はそれを我が物にせんと危うく争いが生じかけましたが、一人のバラモンが調停に立ち、その遺骨は八つに分けられ塔の中に祀られました。また遺骨を収めていた「かめ」を持ち帰ってかめ塔や「灰」を祀った灰塔も建てられ、十の仏塔ができました。
お釈迦様の入滅後、仏教教団で最も法歳の高かったマカカショウが教団指導者となりました。彼が最初にやった仕事はお釈迦様の教えの確認でした。なぜ彼がそれをやろうと思ったのかというと、旅の途中にお釈迦様の入滅を知らされた時に一人の弟子が「我々はもはや解放された。これからは好きなようにできる」と冒涜の言葉を吐いたのを見たからです。これがきっかけで彼はお釈迦様の教えを確認することの重要性を痛感し、お釈迦様の教えをまとめた結集(会議)を行いました。これを第一結集といいます。
この結集に不参加を表明したグループもありましたが、しばらくは教団はスムーズに運営されました。その後百年後に第二結集が行われましたが、その時に教団は保守派と進歩派に分裂しました。
お釈迦様の入滅後、教団は出家者を中心とした小乗仏教になり、お釈迦様が在家信者のために説かれた教えは無視されてしまいました。だが数百年の後に民衆の仏教である大乗仏教が歴史の舞台に登場することとなります。
仏教は当初から、出家者のための仏教という様式でしたが、それが単なる出家仏教というより、碩学の仏教となってしまったのです。
出家修行者のみでしか、伝えられないくらいに複雑で難しいものとなり、在家信者にはわからないものでした。そのため民衆は山林修行者からお釈迦様について色々教わっていました。山林修行者はなるべく民衆にわかりやすく教えを伝え大乗仏教が成立していきました。
今回はここまでにします。次回Part4へ続きます。