たくあん漬けの創製者として知られている沢庵和尚の生涯について
戦国末期から江戸初期という激動の時代を生きた沢庵和尚。将軍家光に慕われ、たくあん漬けの創製者として知られている沢庵和尚の生涯について話していこうと思います。
1 修行の時代
2 沢庵と崇伝
3 悲願達成
1 修行の時代
天正元年(1573年)戦国時代の終わり頃、当時の但馬国の出石村に秋庭能登守綱典という武士の家に、のちに沢庵和尚となる男児が誕生しました。十歳の頃に但馬の城主である山名宗詮が秀吉に滅ぼされ、山里などに隠れ住む中で少年沢庵は浄土宗唱念寺の衆誉上人に乞われて出家し、春翁と名付けられました。春翁は毎日浄土三部経を書写し、大人に混じって朝夕の勤行に励んでいました。彼の向学心は浄土門にあきたらず、そんなある日、乞食行をする臨済宗の禅僧である希先西堂に出会い、十四歳の春翁は自らの意思で転宗し、京都大徳寺派の禅寺である宗鏡寺写り、名前も秀喜と改めました。師と仰ぐ希先について厳しい修行に明け暮れた秀喜は禅宗こそ我が行くべき道だと知りましたが、彼が十九歳の頃に希先は入寂しました。途方にくれる思いの秀喜は希先の遺言により宗鏡寺を継ぐよう勧められましたがそれを辞退して一人行脚の旅に出ました。
翌年旅から戻った秀喜は本寺の大徳寺から董甫宗仲という優れた僧が宗鏡寺に迎えられたことを知り、秀喜は董甫について伝統ある大徳寺禅を学ぶことになりました。その二年後に董甫の供として京都大徳寺に入った秀喜は春屋宗園の弟子となり名を宗彭と改めました。京都での修行の生活はとても貧しく、宗彭は食費と学費に充てるため写本の仕事もしなければなりませんでした。ところが一方には要領よく立ち回り権勢ある大名などに取り入って贅沢な生活をする僧もいましたが、それを苦々しく思う宗彭は全ての欲を離れ戒を厳しく守り続けました。
慶長5年(1600年)天下分け目の戦いといわれた関ヶ原の戦いで石田三成が徳川家康に敗れ、それまで石田側に近かった大徳寺は徳川方からなにかと白い目で見られるようになっていました。この翌年に董甫がこの世を去り、宗彭は大徳寺に止まる理由がなくなったため、寺を出て大阪の大安寺に住む学僧の文西西堂に師事し儒教と詩文を学びましたが、二年後に師と仰ぐ文西西堂が亡くなりました。その後宗彭は師であった春屋宗園の法弟がいる南宗寺に赴き修行を始めました。そこでの修行は一切の名利をきらい禅者一凍の弟子を教える態度は厳しいものでしたが、宗彭はそのような師の元ではじめて自らの天分を存分に伸ばすことができました。一凍紹滴のもとで修行に没頭した宗彭は三十二歳で師より印証を授けられ、沢庵宗彭と名乗ることを許されました。
2 沢庵と崇伝
慶長八年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府が開かれや天下は徳川の時代になりました。その頃、南禅寺の僧侶の金地院崇伝は将軍家康の懐刀と言われ、仏教界全般を取り締まる絶大な権力を持った僧でした。権力を欲しいままにした金地院崇伝と全く対照的な生き方をした沢庵宗彭は共に同じ時代を生きた禅僧でした。
慶長十一年(1606年)に師である一凍がこの世を去り、その半年後に父が、更に半年後に母が他界しました。沢庵にとって悲しいことが続きましたが、沢庵は一凍の跡を継いで南宗寺の住職となりました。
慶長十四年(1609年)に朝廷の勅旨により三十七歳の沢庵は京都大徳寺の住持に任ぜられましたが、その三日後にその位を捨て南宗寺に戻り、その後沢庵は再び諸国行脚の旅を続けました。元和元年(1615年)大坂夏の陣が起こり、東軍の糧道を絶とうとして町家へ放火したため、飛び火をもらい南宗寺も炎上してしまいましたが、いち早く京都大徳寺に寺宝を運んでこれを救いました。
一方、黒衣の宰相と言われた金地院崇伝は江戸幕府の基礎となる新しい法律の草案、寺院法度の作成も進めていました。これが沢庵の生涯を大きく転換させることとなった紫衣事件のはじまりでした。この法度は崇伝の陰謀で守る必要はないと判断した沢庵は、従来通りのやり方で押し通すこととなりました。その後南宗寺の再建を成し遂げた沢庵は再び旅に出て、やがて故郷の宗鏡寺に戻り投淵軒という庵をつくり、終生の理想とする隠棲の生活に入った時が四十八歳であったが、その七年後にそれまで見過ごしてきた幕府が突如として法度違反を追求してきました。この大徳寺の一大危機を知らされた沢庵は静かな暮らしを捨て上洛し、先頭に立って幕府に抗弁書を提出しました。抗弁書は沢庵自身が筆をとり、長老の芳春院玉室と龍光院江月が連署し、抗弁書の内容は幕府に挑戦するかのように公文書の漢文体をとらず仮名交じり文で起草者である崇伝の無知をあざ笑うかのような文章でまとめられていました。これに激怒した幕府は沢庵らを捕らえ、将軍秀忠は沢庵たちの流罪を宣言しました。
沢庵が流されたのは出羽上山藩で、その城主土岐頼行はまだ二十二歳ながら熱心な禅の信者であったため、思いもかけない手厚いもてなしを受けました。
寛永九年(1632年)に二代目将軍秀忠が亡くなり、冥福を祈っての恩赦として三代目将軍家光が沢庵たちを赦免し、沢庵は配流された三年あまり同じ罪で流されていた玉室などと共に許されて江戸へ戻りました。しかし赦免になっても沢庵はすぐに宗鏡寺に戻ることは許されませんでした。また沢庵が江戸へ戻って一年後に金地院崇伝は六十五歳で亡くなり、一時の権勢は見る影もなく一人寂しくもんもんのうちに息を引き取りました。
3 悲願達成
寛永十年(1633年)将軍家光に気に入られた沢庵はなお江戸にありましたが、六十一歳の時に念願の鎌倉遊歴の旅に出ました。翌年沢庵はようやく宗鏡寺に戻ることができましたが、その翌年には再び家光によって江戸へ呼び戻されました。崇伝が没し天海も百歳に近く代わるべき幕府の最高政治顧問の一員として沢庵に白羽の矢が立てられましたが、富や権力と結びついてしまうがため沢庵はなんとかして家光の元を去ろうとしました。しかし紫衣問題の解決を願う沢庵の心を知る家光は「大徳寺のためを、そして法のため思うなら江戸にとどまるが良い」と言って沢庵を引き止めました。並並ならぬ家光の傾倒ぶりはやがて品川に東海寺を建立し沢庵を住まわせました。権門勢家を嫌い静かな暮らしを願う沢庵でしたが江戸を離れることができませんでした。
寛永十八年(1641年)に後水尾上皇の突然の譲位という事態まで引き起こした紫衣事件のもとであった大徳寺・妙心寺法度がようやく幕府によって改められ、二十六年に渡っての悲願がついに達せられました。しかしそのために彼は自分の本意ではない権門勢家に支えられた豊かな生活の中で将軍の相談相手として暮らさなければならなかったのです。そんな沢庵の胸中も知らず当代随一の名僧高く評価し心酔してやまない家光や後水尾上皇は、沢庵一代で法が絶えることを案じてたびたび嗣法の弟子をつくるよう要請しましたが、誰一人として弟子をとることはありませんでした。
正保二年(1645年)に沢庵は病に倒れ、家光は医師や側近の者たちを連日東海寺に差し向けて沢庵の治療介護に当たらせましたが、寺僧たちに見守られながら静かに息を引き取りました。享年七十三歳でした。
沢庵は死ぬ間際に「わたしはぼろをまとった一介の僧に過ぎない。すでに荒野に捨てた身、夜間に密かに担ぎ出し地に深く埋めよ。そしていっさいの痕跡を残したり伝記や肖像画も無用のこと」と言い残したため家光もその遺言に逆らうことはできませんでした。
沢庵和尚は名誉や名声を嫌い貧しい人々のために生き、幕府の権力に真っ向から立ち向かった名僧でありました。