御仏の教えを礎に大改革を行った聖徳太子の生涯について
聖徳太子といえば日本人なら誰でも知っている有名な人物ですが、日本仏教の基礎を築いた偉大な業績がいくつもあります。今回は聖徳太子について説明していきます。
1 蘇我氏と物部氏の争い
2 摂政として政治を執り行う
3 聖徳太子の最後
1 蘇我氏と物部氏の争い
五百八十七年、大和国で厩戸皇子(聖徳太子)の父親である用明天皇が病に侵され床に伏せていて、皇子は三日三晩ほとんど一睡もせず献身的な看病をしていました。大臣である蘇我氏は大王の病気平癒を仏に祈っていましたが、大連である物部氏は日本古来よりの国つ神をないがしろにしているから病気が良くならないと反論し、お互いで口論となっていました。そもそも日本への仏教伝来はこれより五十年前の五百三十八年のことで、有力豪族の蘇我氏と物部氏は仏教を取り入れるか排斥するかで激しく対立し、権力争いもからんでその対立は泥沼の様相を深めていました。用明天皇は仏教信者でしたが、物部氏がそれに反対していることから病気平癒を仏に祈ることが表立ってできない状態でした。用明天皇に変わって皇子が仏に祈っていましたが、その祈りも届かず用明天皇はその生涯に幕を閉じました。
用明天皇の没後、次の皇位をめぐって泊瀬部皇子を推す蘇我氏と穴穂部皇子を推す物部氏が激しく対立していました。蘇我氏は穴穂部皇子が皇位につくと物部一族の朝廷内の権力が絶対的になることを恐れ、穴穂部皇子を暗殺しました。それを聞いた物部氏は怒り、兵を集めさせ合戦の準備をはじめました。蘇我氏は皇太后炊屋姫の宮殿へ赴き、物部氏が不穏な動きをしていることを伝えるとともに、炊屋姫に物部氏を打てば政情も安定するということも伝えました。
五百八十七年に皇太后炊屋姫は物部氏討伐の詔を発し、蘇我軍は物部軍の抵抗を排しながら物部氏の本拠地である渋川に迫りました。蘇我軍の攻撃は三度失敗に終わりましたが、皇子が仏法を守護する四天王の像を削り、その像に「勝利の暁には御仏のためにお寺を立てることを誓います」と祈り四度目の攻撃を仕掛けると、ついに物部氏を滅ぼすこができました。こうして蘇我氏は権力を手中にし、泊瀬部皇子が皇位について崇峻天皇となり、ました。五百八十八年に飛鳥の地に法興寺の建設が始まり、物部氏との戦の中で誓った約束を果たすこととなりました。
五百九十二年に崇峻天皇は権力を持つ蘇我氏に山奥の宮で生活させられ、また政治に関しても操り人形にさせられていると怒り、蘇我氏を討ち果たすために兵の準備をしはじめました。それを察知した蘇我氏は崇峻天皇を暗殺してしまいました。それを聞いた皇子はこのような悲惨な出来事を人間の世の中からなくすことができないのかと考え、仏教の勉強にさらに時間を費やすようになりました。
2 摂政として政治を執り行う
崇峻天皇の暗殺ののちに、炊屋姫が即位し日本最初の女性天皇である推古天皇が誕生しました。皇子が二十歳のある日に、推古天皇は摂政として政をみてほしいと頼まれます。最初は醜い争いごとに巻き込まれることを懸念したり、政治の場に出ると仏教の勉強の今までのようにできなくなることから、積極的ではありませんでした。ですが今まで何のために仏教を勉強してきたのかを深く考えると、人の世から悲惨の二文字をなくすためであると気づいたことから、摂政になることを引き受けました。皇子は摂政を受ける代わりに推古天皇にあるお願いをしました。それは世の中の真理、自然の真理、人間の心理を解き明かしている仏の教え、つまり仏教の教えを土台にして国を治めること、ゆえにまず推古天皇が崇仏の立場を明らかにし、三宝興隆の詔を発してほしいというものでした。
五百九十三年に厩戸皇子は皇太子となり摂政として政治を執り行うこととなり、そして翌年に推古天皇は三宝興隆の詔を発しました。このころ難波に四天王寺が建立され、また五百九十六年に八年の歳月をかけて作られた法興寺が完成し、住職には高句麗の僧である恵慈が就任しました。
太子の活躍はめざましく、冠位十二階の制度を設けて人材登用に道を開いたり百済や新羅などとの外交問題にも積極的に立ち働きました。そのため太子の毎日は多忙を極めましたが、そんな中でも仏教の勉強を欠かさず行い住職の恵慈から様々なことを教わりました。しかし太子が理想とする世の中の実現が難しくそのことを嘆いていると、恵慈が「太子様がこの国をどんな国にしたいと思っているのか、それをわかりやすい言葉で表してみてはいかがでしょうか」と言ったことから、我が国最初の憲法である憲法十七条が制定されました。
太子は多忙の合間を縫い、推古天皇をはじめ政府の高官や女官たちに経典の講義を行い、また自分の住居である岡本宮でも経典の講義を行っていました。太子の熱意溢れる経典の講義によって推古朝の仏教の理解は深まり、ひいては国民の仏教信仰も次第に盛んになっていきました。この頃に法隆寺が建立され、法隆寺は父である用明天皇のために建てられたもので、太子がこれからも命ある限り仏教興隆のために力を尽くすという意思をそのものでした。
当時最大の懸案であった隋との外交問題で太子は多忙を極めている中で、六百七年に小野妹子を遣隋使として派遣し隋の皇帝煬帝に国書を託送しました。そして翌年には裴世清が来日し、ついに国交を開くことに成功しました。その後太子は勝鬘経・法華経・維摩経の三経の注釈書を著し、これらの経によって日本人の魂の骨格を作り上げようとするかのような全霊を打ち込んでの著作でした。
3 聖徳太子の最後
六百二十一年、斑鳩中宮で太子の母親である穴穂部間人皇女は伝染病にかかり床に伏せていました。伝染病にもかかわらず太子は母のそばで看病を続けましたが、懸命の看病も虚しくこの世を去ってしまいました。そして年が明けて間も無く太子も母と同じ病に倒れました。太子の息子である山背大兄王は父の病気平癒のために、仏師である鞍作止利に仏像を作るよう頼みました。しかし六百二十二年に仏像が完成することなく聖徳太子は永遠の眠りにつきました。まさに太陽が沈んだかのように太子の死は国中を深い悲しみの闇に閉ざしました。太子の死は遠く海を隔てた朝鮮にも伝わり、大使と交流のあった人々は皆一様に太子の死を惜しみ悲しんだと言われています。
それから一年後、止利仏師が手がけていた仏像が完成し、今現在に法隆寺金堂に納められている釈迦三尊像こそまさにそれです。
仏教を根本とした太子の数々の業績は日本という国の基本的な骨格を作り上げました。しかし何よりも偉大な業績は仏教という日本人の魂の土台を築き上げたことではないのでしょうか。