日本仏教にも影響を与えた中国仏教について
一世紀半ば中国へと伝えられた仏教は、中国の伝統的な思想の影響を受けて独自の仏教を形成していきました。中国の歴史の中で、仏教がどのように変遷していったのか、その跡をたどっていきたいと思います。
1 仏教伝来
2 国家仏教の誕生
3 仏教の中国化
1 仏教伝来
永平年間(五十八年~七十五年ごろ)に後漢、明帝の宮殿で帝は夢を見ました。その夢は金色に輝く人物が空を飛んでやって来るというめずらしい夢でした。帝はその夢を占い師に占わせたところ、「天竺(インド)に仏というものがいて、その仏は空を飛び空だから光を放つそうだ」ということを聞き、そこで帝は十二人の使者を天竺につかわせました。天竺に向かっている途中、天竺から来た二人の僧に会い、仏教を広める旅の途中であることを聞いた使者は二人の僧を連れて明帝の元に向かいました。二人の僧は使者たちに伴われ経典と仏の画像を白馬に乗せて到着しました。帝はこの二人の僧に白馬寺というお寺を献上し、経典を中国語に翻訳することに励みました。この話は伝説と言われますが、仏教伝来に不可欠な仏教・経典・僧・寺院がここに全てそろい中国仏教の幕が開いたと言われています。
五胡十六国の時代(三百七十九年)に前秦王の苻堅が名声高い道安を自国に迎えたいがために十万の兵をもって襄陽の町を攻略しました。道安は苻堅の要請に従い襄陽を去って長安に移り、老荘思想になぞらえて伝えられてしまった仏教を正しく伝え、翻訳するための研究をすることとなり、その際に中央アジアにいる鳩摩羅什という仏教学者を招きたいと苻堅に進言しました。道安のような名僧が欲しがる逸材に興味を持った苻堅は、三百八十四年に将軍の呂光と七万の兵を鳩摩羅什がいる亀茲国に派遣し、討伐を行いました。呂光は亀茲国を破りましたが、命令していた苻堅が後秦の姚萇に殺され、帝を失った呂光は涼州において独立を決め、後涼国を建国しました。羅什は十数年間涼州にに留め置かれましたが、その間に語学の習得と仏典の講義を行っていました。四百一年に後秦の姚萇の子である姚興が後涼国を克服させ、羅什は後秦の長安に迎えられ、長安宮城の北にある西明閣で羅什を中心に数百人の助手が仏典の翻訳に励みました。
2 国家仏教の誕生
四世紀、南北朝の時代に北朝の北魏を建国した道武帝は仏教を国家公認の宗教とし、新都の平城に立派な仏寺を建立しました。道武帝は仏教を支援し、その子である明元帝も仏教を尊みました。しかし第三代の太武帝は四百四十六年に仏教の弾圧を行いました。その弾圧は激しく、数多くの沙門が殺され寺院も焼かれました。太武帝の代から文成帝の代に移るころに仏教弾圧はおさまり再び仏教が復興していきました。文成帝は寺塔を復旧し仏像の造営を進め、仏教は発展を遂げることとなりました。仏僧である曇曜は仏教の発展のために尽力してくれた帝に対し、北魏初代の道武帝から文成帝にいたる五代の帝の石仏を築きたいと進言しました。五世紀半ば雲崗の石窟では北魏初代から五代までの帝の尊容を刻んだ曇曜五窟が開かれ、四百九十三年の洛陽遷都まで石仏の造営が続けられました。しかしこれは国家の支援を得たいがための仏教教団の苦肉の策で国家権力との癒着の表れだと言われていました。仏教保護は以後も代々引き継がれ、やがて北魏の都は平城から洛陽に遷都され、洛陽の町には寺院が数多く建てられ、近郊の竜門には石窟寺院なども作られました。五百四十三年に洛陽城内で大寺を誇った永寧寺から火が出たことが原因により北魏王朝は崩壊しました。
3 仏教の中国化
貞観十九年(六百四十五年)の長安で十六年ぶりに帰国する一人の僧をむかえ人々で賑わっていました。その人物は玄奘三蔵法師と讃えられましたが、十六年前に国禁を犯して長安を密出国していました。なぜ国禁を犯したのかというと、玄奘はお釈迦様の真理を知りたいという気持ちが強かったからでした。玄奘が天竺のマガダ国に到着したのは六百三十三年で、出国して約六年の歳月が経っていました。玄奘は五年間ナーランダ仏教大学で勉学に勤しみ、大学には数千人の学問僧がいて毎日百以上の講義が開かれていました。学問僧はアジア各地から集まっており国際色豊かな大学でありました。玄奘は休む間も惜しんで経典の研究に専念し、その実力はしだいに各地方へと知れ渡るようになりました。外国人の玄奘でしたが、国王に認められ仏教の発祥地で講演をするという華々しい機会を得た後に多数の経典や仏像を携え帰国の途につきました。玄奘は天竺から帰国した後に「大般若経」六百巻をはじめとする膨大な量の経典を翻訳しました。玄奘は国禁を破った罪を償おうと皇帝に申告しに行きましたが仏教に対する熱意に心打たれた皇帝は玄奘を許し、玄奘のために翻経院を建立しました。玄奘は没するまで七五部千三百三十五巻の翻訳を成し遂げ、この分量は中国歴代の訳経総数の四分の一にあたると言われています。
中国仏教にある浄土思想の一つに曇鸞ー道綽ー善導の系譜がありました。この浄土の系譜は中国仏教史においては必ずしも主流ではありませんでしたが、浄土教は「南無阿弥陀仏」と唱えることで、死後わたしたちが阿弥陀仏の極楽浄土へ生まれさとりを得ることを説いた教えであり、この思想がのちの日本で法然や親鸞によって支持されたのでした。
仏教は中国の地において独自の発展をとげ民衆の中に溶け込んでいましたが、明代以降その活力をしだいに失っていきました。しかしチベット・朝鮮・日本では中国仏教を母体として新たな仏教の歴史が繰り広げられることとなります。
中国仏教は朝鮮半島、日本へと伝播し多くの寺院が作られ、東アジア仏教圏を形成し、中国大陸に残されている仏教寺院は今もなお多くの参拝者が訪れています。