第十四回コラム「法然の生涯について」

末法の時代に苦しむ民衆に希望の灯を与えた法然

 

 浄土宗の開祖である法然について詳しく話していきたいと思います。

 1 父の教えと出家

 2 求道と広がる教え

 3 弾圧を超えて

 

1 父の教えと出家

 法然は幼名を「勢至丸」といい、美作国の押領使であった父の漆間時国、母の秦氏君の子として生まれました。勢至丸が九歳の頃に父が土地争論に関連したことにより、預所の明石定明に夜討ちをかけられ、父の時国は殺害されてしまいます。その際に父の仇を取ろうと心に決めていた勢至丸でしたが、父の遺言によって敵討ちをせず、仏門に入り出家することを決めました。

 勢至丸は母方の叔父である僧侶の観覚のもとに引き取られ、美作国の菩提寺で仏教について勉強し始めました。亡き父との約束を守るために勢至丸は勉学に励み、観覚が教えたことは一を聞いて十を悟り、一度聞いたことはすぐ覚えて決して忘れないという非凡な才能を見せつけました。その才能に気づいた観覚は京にある比叡山に紹介状を書きそこでの勉学を進めたところ、それを勢至丸が了承しました。

 比叡山延暦寺は学問の府として名高い場でありましたが、当時は荒んだ世相を反映して僧の規律も乱れていました。仏道に励むよりも外に向かって園城寺との抗争に明け暮れ、内にあっては名利を求めた勢力争い、これでは三百年を超える叡山の火も消えてしまうのではと心ある人々は嘆き悲しむばかりでした。そんな中でも源光と睿空を師事し仏学に励み、授戒を受けた勢至丸は師の一字ずつをとって「法然房源空」という名を授かりました。

 特に睿空から学んだことが多く、よく師弟で仏道について熱く議論を交わしお互いの意見をぶつけ合っていました。源空はいくら学問に没頭しても未だに迷いの世界から抜け出せないことを悩んでおり睿空に相談したところ、世間を眺めてこいと言われ延暦寺を降りることとなりました。

 

 2 求道と広がる教え

 保元元年(1156年)に保元の乱が起こり鳥羽法皇が亡くなって勢力争いが続き国中が乱れていました。いわゆる末法の世(仏法が行われなくなる時代)で人々は、どうしたら仏に救われるのかがわからず苦しんでいて、その光景を目にした法然自身もどうすればいいかわからなくなってしまいました。お釈迦様に教えを請うために七日間祈り続け、遂に「末世に苦しむ民衆を救うことこそが使命である」というお釈迦様の声を聞き、続けて「この使命を忘れず深く経典を読むことでそこに救われる道が示されていることに気づくであろう」という声を聞いたことにより法然は自分が進む道がはっきりと見え、もう一度経典を学ぶことを決意しました。それからは名高い高僧のとこへ教えを請いに行きましたが、法然があまりにも知識が豊富にあったため褒められるだけで心ゆくまで教えてもらうことができませんでした。

 納得いくまで学ぶことができなかった法然は、比叡山に戻り睿空のもとで学びなおすため経蔵にこもり二十年間もの長きの間経典を読み続けました。そして遂に唐の善導大師が書かれた「観経疏」に出会い、その一節に書かれていた「散善義」に心打たれます。そこには「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住座臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者これを正定の業と名づく、彼のほとけの願に順ずるがゆえに」と書かれており、つまり「いつでもどこでも何をしている時でも一心に阿弥陀仏の名を称えさえすれば極楽往生は決定する。何故ならばそれは阿弥陀仏の誓いなのだから。」という意味で、誰もが必ず極楽浄土へ生まれ変わることができると約束してくれるというものでした。法然は「凡夫である自分の力で悟ろうと思ってはダメだ、阿弥陀仏にお任せしてこそ救われる。阿弥陀仏の誓願におすがりして念仏するのだ。」と気づき、これを民衆に伝えるために比叡山を降りることを決意しました。

 比叡山を降りた法然は、最初は京都の西の広谷に住んでいましたがやがて京都の東の吉水に移り南無阿弥陀仏の教えを広げて行き、やがて多くの人が法然のもとに自然と集まってきました。

 文治二年(1186年)法然は顕真(のちの天台座主)の求めに応じて大原の勝林院に赴き、法然が既成教団の僧侶たちを前に専修念仏の本旨を説くこととなりこの会談は仏教界にとどまらず大いに世間の耳目を集めることとなりました。(大原談義)

 民衆を救うことを自らの使命としていた法然でしたが、末世に苦しむのは民衆だけではなく、宮廷の中にも法然の念仏は必要とされていました。なかでも最も深く法然に帰依したのが九条兼実で、三十八歳で摂政そののちに太政大臣となった屈指の人物でしたが、のちに兼実は法然を戒師として出家することになります。

 高齢となった法然は、「今のうちに浄土門の教えを今の人々のため後の世の人々のために書き置きしていただけないか。」と兼実公と門下一同から頼まれ、こうして出来上がったのが「選択本願念仏集」であります。浄土三部経のなかから重要部分を抜き出し、それに対する善導の解釈を引き、さらに法然自身の考えを述べたものでした。

3 弾圧を超えて

 救いを求めて法然のもとに集う人々の数は膨れ上がり、もはや一大教団の様相を呈してきた中で、悪人や遊女だろうとどんな人でも念仏を唱えれば救われるという考え方に異議を唱える勢力が出てきました。念仏の教えは朝廷の許しと加護を受けていなかったため、他宗の差し金により専修念仏の停止と法然一門の処罰を朝廷に願い出されました。法然は土佐へ流罪となり、土佐で過ごすこととなりますが四年後に京に戻りました。

 建暦二年(1212年)に法然は八十歳で往生しました。

 念仏を唱えるだけで極楽浄土へいけるとする法然の教えは、人々の救いとなり、救いを求める人たちが多く集まりました。また、身分が違っても誰もが等しく救われるとする考え方も革新的だったために、社会的に差別されていた人達にも人気がありました。法然の思想は、日本の仏教に大きな変化をもたらし、人々の思想にも大きな影響を与えた出来事でありました。

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