第十三回コラム「日蓮の生涯について」

激動の人生、日蓮の生涯

 

 激動の人生を送った日蓮について今回は話していきたいと思います。

 1 修行の時代

 2 立宗宣言

 3 打ち続く法難

 4 身延山へ入山・日蓮の夢

 

 1 修行の時代

  日蓮は幼名を『善日麿』といい、小湊の漁村で生まれ育ちました。父は漁師で海が大シケの時に一隻の漁船が波に飲まれ、その船に乗ってた人たちが亡くなりました。供養してもらおうとお寺へ行こうとした善日麿を父が止め、その理由が「殺生を生業とする漁師や女人は死んでも成仏できないから。」でした。善日麿は「お釈迦様の慈悲はそんな小さなものなのか、こんなに悲しんでいる人たちがいるのにお釈迦様はその人たちをお救いになることができないのだろうか。」と子供ながらに思いました。

 転覆元年(1233年)善日麿が十二歳の時に天台宗清澄寺を訪れ、お釈迦様の本当の教えを学ぶために入山し、四年間の修行の後に出家し『蓮長』と名乗りました。

 蓮長は十七歳になると、師匠である道善房に鎌倉への遊学の許しを貰いました。当時幕府は天台・真言・禅の各宗を保護されていましたが、蓮長は浄土宗を学ぶこととしました。浄土宗では、「この世の中では様々な困難や苦しむが、ひたすら阿弥陀仏におすがりすれば来世では必ず幸福になれる。」と教えられました。しかし蓮長は「来世で救われるだけではなく、この世でも幸せであることを考えるべきだ。」と思いその寺をさりました。

 鎌倉の遊学を終え、次に向かったのは比叡山延暦寺でした。延暦寺は東塔・西塔・横川の三院で構成されており、蓮長は本院とされる東塔へ入りました。比叡山での生活は厳しい修行の連続でしたが、蓮長はその合間をぬってあまたの経典を貪るように読み続けました。そして横川の華光房に移ると他の諸宗の肝要を学ぶために自ら各地を歴遊するようになります。各地を回り学んだ蓮長は、比叡山に戻り初心にかえって天台大師の三大部を拝読し、「釈迦が説かれた経典はたくさんあるが、法華経の前に説かれた教えは像法時代までしか通用しない仮の教えで、釈迦はわれわれ末法の衆生のために法華経を説かれた。」と理解しました。

 法華経はお釈迦様と弟子達の会話で構成されていて、その内容は女性はもとより仏教を信じない者や敵対した者までが成仏できる者でありました。蓮長はついに探し求めていた仏の教えに出会うことができたのです。

 

 2 立宗宣言

 建長五年(1253年)清澄山旭ヶ森の山頂で蓮長は「”南無妙法蓮華経”これが万人を救済するお題目である。」と声高らかに唱えました。この日の正午、蓮長の説法がはじまりました。ところが、集まった多くの人が期待した阿弥陀さまの話ではなく、諸宗の誤を指摘して法華経こそがお釈迦さまの真実の教えであると説き、その場は大騒ぎとなりました。その場にいた念仏信者の地頭東条影信は怒り、故郷の小湊から追い出されることとなりました。小湊を出る前に、父に妙日、母に妙連という名を用意し最初の信者とし、父母への感謝の意を込めその名をとって『日蓮』と名乗ることを決意しました。

 故郷を後にした日蓮は、鎌倉法華経を布教するために、街角に立って民衆に仏の真実を問いかける辻説法を行いました。しかし、禅宗や念仏宗を批判していたので、罵声を浴びせ、石を投げつける人も多くいました。そんな中でも堂々と説法を続ける日蓮を見て少しずつ人々の信望が集まり、教団を形成するまでになっていきました。

 正嘉元年(1257年)に日食現象が起こり、前後して鎌倉・京を地震や台風や疫病が襲いました。このままではいけないと思った日蓮は、どうしてこのような災害が起こるかその論拠を知るために経蔵にこもり経典を読み返し幕府に訴える意見書を作成しました。

 文応元年(1260年)に日蓮はついに自己の主張を『立正安国論』にまとめ幕府に提出しました。そこには「打ち続く天変地異は間違った教えが世に広まっているから起こるのであり、釈迦の正しい教えである法華経で国を建て直さなければ内乱と外国からの侵略で国は滅びるであろう」と書かれ、予言もされていました。非難されたと知った他宗の僧や信者は激しく日蓮をうらみ、松葉ヶ谷に夜討ちをかけました。(松葉ヶ谷の法難)この時日蓮一行は信徒進士善春らの防戦により何とか鎌倉を脱出しました。

 

3 打ち続く法難

 翌年に日蓮は再び鎌倉に戻り辻説法を再開しました。日蓮が帰ってきたことを知った日蓮に反発するグループは幕府に訴え、理不尽にも日蓮は捕らえられ、伊豆国へ島流しの流罪に処されました。日蓮は潮が満ちれば海に沈む俎岩に置き去りにされましたが、お題目を唱えていると奇跡的に船で通りかかった船守の弥三郎に助けられます。伊豆国で二年間を過ごし、日蓮は幕府に許され人々に惜しまれながらも鎌倉へ帰っていきました。

 文永元年(1264年)に日蓮は故郷の小湊を訪れました。しかし、そのことを知った地頭の東条景信は日蓮を亡き者にしようと数百の兵を配し、闇討ちを行いました。弟子である鏡忍房が討ち死にしましたが、日蓮は辛くも逃げ切ることができました。(小松原の法難)

 文永五年(1268年)国書を携えた蒙古の使者が日本に服属を求めてきました。日蓮の予言通りとなったことで、日蓮は幕府と仏教界の代表に書状を送りつけ公開討論を迫りましたが答えるものは一人もいませんでした。逃げに徹する彼らの姿に民衆は失望し、それに反して日蓮を慕う者は日増しに増えていきました。時の執権である北条時宗はこのことを不服とし、幕府を侮辱した罪で日蓮を捕まえ死罪にしました。刑場に連れられていかれた日蓮でしたが、処刑されそうになった時、天から雷が落ち処刑は中止となりました。約一ヶ月後日蓮の処分が決まり佐渡島への流罪の刑に処されました。(竜ノ口の法難)

 佐渡についた日蓮は塚原という土地に移され食べ物もない冬山で謹慎させられました。この処分を不服とした、越後・越中・出羽・奥州・信濃から諸宗の僧侶たちが集まってき日蓮を屈服させようとしました。しかし日蓮は集まった数百人の僧たちと問答し逆にことごとく納得させていきました。(塚原問答)その翌月、日蓮は『開目抄』を著し末法における法華経行者としての自覚を開示しました。

 二年後に日蓮は幕府に許され鎌倉へ帰ることとなります。日蓮が戻った鎌倉の街は迫りくる蒙古の幻影に怯えていて、予言がことごとく当たっている日蓮を幕府はついに招き入れることとしました。幕府が蒙古の襲来の時期を聞いたところ日蓮は「今年中に来る、この国難を救える者は法華経の教えのみだ。」と答えましたが、受け入れられませんでした。

 

 4 身延山へ入山・日蓮の夢

 幕府に三度進言したにもかかわらず法華経を受け入れられなかった日蓮は、身延山にこもることを決意します。身延山に入ってわずか五ヶ月後、日蓮の予言どおり三万三千人の蒙古軍が襲来し猛威を振るいました。その後、弘安四年(1281年)にも蒙古軍が再び来襲しました。蒙古軍をなんとか退けることにはできましたが徐々に力を失い、鎌倉幕府は滅亡へと向かっていきました。

 日蓮は日々の論議や幾多の法難などでこの頃になると病気がちになっていました。心配した弟子たちは湯治場がある常陸国へ日蓮を連れ出しましたが、旅の途中に病に倒れ、弘安五年(1282年)十月十三日に日蓮は六十一歳の生涯を閉じました。

 日蓮の願いは法華経を全世界に広め、この世に平和な幸せに満ちた仏国土を築き上げることでした。

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