第九回コラム「最澄の生涯について」

天台宗の設立がいかにしてなったか

 

天台宗の開祖である最澄について皆さんはどれほどご存知でしょうか。

今回は最澄の生涯についてお話ししていきたいと思います。

1 修行の時代

2 唐での修行の時代

3 空海に教えを請う

4 天台宗樹立後のはなし

 

1 修行の時代

 延暦四年(七百八十五年)旅姿の見習い僧が数名が東大寺を目指して歩いていた。その中に近江国の国分寺からやってきた最澄がいました。

旅の途中、国が乱れ、飢えや病に苦しむ人を多くみて歩いていた最澄は自分の無力さに悩んでいました。仲間の僧からは「一人で悩んでも仕方ない、世の中がどうなろうと自分たちは飢え死にすることなく生きていける」そのようなことを言われました。最澄はその言葉を聞き、真面目に勉強をする人が少なくなった仏教に失望していました。

 東大寺についた最澄は、当時僧侶となるには具足戒を受ける必要があったため受戒の儀式を受けます。受戒の儀式は、三師七証といって三人の師匠と七人の証人の高僧が執り行っていました。儀式は延々と夜更けまで続き、じつに二百五十もの戒律を授けられ、はじめて正式な僧侶になるのです。僧侶になった最澄でしたが、授かった戒律を守りきる自信がなく、自分が仏になることができるかどうか不安になっていましたが、お釈迦様の言葉で ”人に生まれることは大海に落とした針を捜し出すほどに難しい”という言葉を思い出しました。

 そこで、最澄は比叡山の山林にこもり修行をはじめることにしました。明るいうちは経典を読み、夜は座禅に明け暮れ寝食を忘れて修行に打ち込みました。

 最澄は生まれつき宗教家としての才能に恵まれていましたが、意志が強く自分に対して特に厳しい態度で臨んでいたのでその修行は想像を絶するものでした。食べ物を得るために里に降りていくことも惜しんで修行に励んでいたので、栄養失調になることもあったそうです。

 修行の最中、自らを律し誓願を起こして書き記したのが最澄の「願文」です。

 第一 眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が清浄にならないうちは世間に出て働くまい

 第二 真理を明らかにできないうちは知識や能力を発揮するまい

 第三 戒律を完全に守れないうちは施主の法会には出席すまい

 第四 一切の執着から脱した境地を得ないうちは世間の人事にかかわるまい

 第五 この世で自分の修める功徳はひとり自分の身には受けず全ての人々に及ぼしたい

 「願わくば六根が仏と同じく清浄となり神通力を得たとしてもわたしはひとりさとりを得ることはせずなんども生まれ変わり全ての生あるものをさとりに導くまでは未来永劫仏事に努めんことを」

 と書き記しました。

 自ら菩薩の道を実践しようとした最澄の願文の噂は広まり修行僧が最澄を訪ね、人柄に触れることにより、この地に留まる者もでてきました。こうして最澄の元には志を同じくする者たちが多く集まり、堂塔や僧坊の数も増えていき比叡山に一大教団が形成されていきました。

 2 唐での修行の時代

 入山から十二年後、最澄の評判はやがて朝廷にまで広がり、帝のそばに仕えて病気回復を祈ったり怨霊などをお祓いする役である内供奉禅師(ないぐぶのぜんじ)に任命されました。当初最澄は自分の目的である法華経の教えを広めることで、帝に仕えることではないと思っていました。しかし帝に仕えることで一切経の完備と、唐に渡って天台宗を勉強することができるかもしれないと考え直し、桓武天皇に仕えることを決心しました。

 最澄は帝の信頼を掴み、一切経の完備と南都七大寺の学僧との勉強会を比叡山で開く許しを得ることになります。全国のお寺から経典類の書写本が送られ、最澄はかたっぱしから読破していきました。最澄がなぜここまでして勉強していたかというと、天台宗を日本にうち立てようとすれば激しい攻撃を受けることが予想できたことと、南都六宗がどのような理論を持っているのかを正確に知る必要があったからです。さらに最澄は講演会を開くことによって六宗の学僧たちに鋭い質問をして彼らの学識を学んでいきました。

 延暦二十三年(八百四年)に最澄は遣唐使船に乗り唐に向かいました。唐に上陸した最澄は台州で道邃という高僧から大乗菩薩戒を授かったのち直ちに天台山へ向かいました。そこで行満を師として懸命に学び、数ヶ月後には天台教学の全てを伝授され、天台仏教の正統を受け継ぎました。最澄は書写した、たくさんの聖典を携えて帰国のために下山しましたが日本への帰国が伸びたため、最澄は竜興寺で順暁から灌頂(密教の重要な儀式でこれを行なって法を伝えたり師弟の縁を結ぶもののこと)を受け経典百十五巻を書写しました。その頃、長安の都で詩と書の才能があると評判になっていた僧こそが、最澄と同じ船団できていた空海でした。空海は唐に残り密教の勉強を続けることにしますが、最澄も唐に残って密教の勉強をしたかったのですが国の決まりで帰国することになりました。

 帰国後、桓武天皇は最澄が多くの時間をかけて学んだ天台仏教よりも、短期間で学び不十分なものである密教にとりわけ関心を抱きました。その頃、病床にあった桓武天皇は自分の代わりに高僧への灌頂を最澄に要請し、また体の悪い自分に病気回復の祈祷を行わせました。

 このままでは密教ばかりがもてはやされ天台仏教の影が薄くなってしまうと危惧した最澄は天台宗の樹立を決めます。最澄からの提案書には各宗で十名の年分度者(国家から定数を限って僧となることを許され官費を支給される僧のこと)に天台宗の二名を加えることを認めて欲しいというものでした。帝はこれを許可し、南都六宗と並んで天台宗が公に認められることになりました。

 3 空海に教えを請う

 天台宗樹立後に桓武天皇は崩御され、その後に即位した嵯峨天皇は詩と書の才能を高く評価した空海を高く買われていました。唐で密教を受け継いできた空海に、最澄は教えを請うべく手紙を書き密教の典籍の中から十二の経典を借用し、それを必死に書写して学びました。

 弘仁三年(八百十二年)に最澄は弟子とともに空海を訪ね、灌頂を受けることを懇願しました。空海はこれを了承しましたが、灌頂を受けるには空海の元で修行に打ち込み早くて三年かかると言われ、最澄はこれを断念しその代わりに自分の弟子を空海のもとに送り込みました。その後も最澄は空海から経典を借用していましたが、ある時「理趣釈経」という密教の最も重要な典籍を借りたいと手紙を送った際、密教を修行していない人には貸すことができないと断られました。さらに、空海のもとに送っていた弟子である泰範は空海を師事し、最澄は再三再四にわたり帰ってくるよう懇請しましたが、ついに比叡山に帰ることはありませんでした。その後、最澄は空海と泰範との交流を断つことになりました。

 4 天台宗樹立後のはなし

 空海との交流を断った後、最澄は精力的に執筆活動を行い、また法相宗など南都の諸宗派と論争を展開し次々と論破していきました。

 弘仁八年(八百十七年)最澄は上野国と下野国に宝塔を建てそれぞれの塔に書写した「法華経」八千巻を納めました。下野国では五万人、上野国では九万人以上の人々が最澄の説教を聞きに来たと言われています。

 弘仁九年(八百十八年)に最澄は弟子の前で、「二十歳の時に東大寺で受けた小乗仏教の戒を捨て大乗仏教のみを守っていく」こと、また比叡山に大乗の戒壇院を設けることを宣言しました。最澄は自ら何度も朝廷に上奏文を差し出しましたが、認可されずついに倒れてしまいました。最澄の死後七日目に戒壇院建立の勅許が比叡山に届きました。その五年後には比叡山には戒壇院が設立され、これは仏教史上に初めて純粋な大乗教団が設立されたことを意味します。

 この後、比叡山は鎌倉時代の仏教を築く俊英たちを生み出した彼らの説いた教えは、連綿として各宗派に受け継がれていきました。比叡山はいつの時代にあっても日本仏教の中心的役割を担っていたのです。

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