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第十五回コラム「道元の生涯について」

2019/03/26

人には仏の性質が備わっているのに、なぜ修行するのだろうか

第十五回コラム「道元の生涯について」 今回は日本曹洞宗の祖である道元の生涯について説明して行きます。

 1 日本での修行の日々
 2 宋での修行
 3 座禅のすすめ

 1 日本での修行の日々
 道元は正治二年(1200年)に京都の久我家に生まれ、幼名を「文殊丸」といいました。幼少の頃に両親を亡くし叔父に育てられた文殊丸は、十三歳の時に家を抜け出し母方の叔父であった良観法眼のもとに行き出家したいことを伝えます。その想いを聞き届けた叔父の良観法眼は比叡山に文殊丸を送り、天台教学を学び始めました。
 建保元年(1213年)に文殊丸は天台座主公園のもとで剃髪し大乗菩薩戒を受け、「仏法房道元」という名を授かりました。天台宗の僧として第一歩を踏み出した道元は厳しい修行に打ち込む日々を送っていました。しかし、当時の比叡山は争いや腐廃が渦巻いており、奈良の興福寺などといさかいを繰り広げていました。道元はこのような振る舞いをする僧たちが理解できず、また道元が疑問に思っている「これまでの仏教ではすべてに仏の性質が備わっていると教えられているのに、なぜ修行をしなくてはいけないのか」という質問に答えてくれる者が誰もいなかったことから、わずか二年で比叡山を降りる決断をしました。
 自ら抱いた疑問を解くために師を探し求めましたが、どこの寺でも納得のいく答えは得られませんでした。途方にくれた道元は高僧公胤僧上を訪ね、そこで宋の国で禅が盛んであることを聞き、再度に渡って入宋している建仁寺の栄西のもとで修行することを勧められます。
 建仁寺を訪れた道元は栄西の高弟明全に出会い、その明全を師とあおぎ、建仁寺での修行生活に入りました。来る日も来る日も禅を中心とした修行を続け、ひたすら入宋の時を待ちました。しかし承久の乱が勃発し、国内が動揺していて宋との交流がままならずにいましたが、道元が二十四歳の時についに入宋の願いが叶うこととなりました。

 2 宋での修行
 貞応二年(1223年)三月に明全と道元を乗せた船が博多を出航し、無事に民州慶元府に到着しました。手続きの関係で慶元府に三ヶ月いた道元はようやく天童山へ向かいます。大きな期待を胸に天童山に入った道元は修行に励み、充実した修行生活を送っていました。道元は天童山の住持である無際の持つ臨済宗大惠派の嗣書を見る機会に恵まれました。無際は道元に自分の弟子となるように勧めましたが「嗣書を授かるほどの境地に達していない」と断りました。道元が嗣書を受け取らなかったのは無際の禅風に飽き足らないものを感じていたからでした。道元は宋の国の修行道場に失望を感じ始めていて、寺院は王侯貴族に迎合し立身出世を望む高僧たちの姿は比叡山のそれと変わりなかったからでした。道元は無際の死を機に天童山を去り、諸寺遍歴の旅に出ましたが、どこの寺も世俗化していて理想とする禅にたどり着けませんでした。旅の最中、曹洞禅を広めている如浄禅師が天童山景徳寺の住持になったとの噂を聞き、道元は再び天童山を目指しました。
 天童山に戻った道元は、共に宗へきた明全と再び再会し、その日に運命の人である如浄に出会いました。この瞬間、道元は如浄こそ長い間探し求めていた真の師であると直感しました。道元は仏道に関するあらゆる疑問を如浄にぶつけるようになりました。ただひたすらに道元は如浄の元で坐禅修行を続けました。如浄はそれまで道元が出会った僧たちとは違い政治権力に近づかなかったことも道元が如浄を師と認めた一つの理由でした。修行の最中、共に宋へきた明全が病に侵され宋に入って二年後に亡くなってしまいました。悲しみの中でも道元は日々修行に取り組み続け、ついに道元に大悟の瞬間が訪れます。早朝の坐禅中に他の僧が居眠りをしていて、如浄が「ただひたすら座るのだ、居眠りするとは何事だ」と叱っているところを目にした時のことでした。道元は如浄の方丈を訪ね、身心脱落で肉体も精神も解き放たれ自由の境地に到達したことを伝えました。「人には仏性が備わっているのになぜ修行するのか」道元が抱き続けてた疑問がついに解決しました。それは「仏性があるからこそ修行ができ、坐禅をしている姿がそのまま仏で、仏性があらわにし仏になりきることそれが禅だ」ということでした。
 安貞元年(1227年)道元が二十八歳の時に如浄の弟子となり嗣書を授かりました。道元は明全の遺骨を抱いて天童山を後にし、入宋から四年半で如浄の言葉を胸に無事日本へ帰国を果たしました。

 3 座禅のすすめ
 帰国した道元は建仁寺にまず入りました。道元は「ものごとをありのままに見る」という仏の教えを日本に持ち帰り、その教えを広く人々に伝えるために「普勧坐禅儀」一巻を著しました。
 寛喜二年(1230年)に史上稀に見る天災異変が続発しました。そんな中でも比叡山の僧兵たちは乱暴狼藉を続けていました。また道元の「普勧坐禅儀」にはひたすら「只管打坐」こそが救いの道であると説かれていて、坐禅以外の修行はいらないと書かれていたのを目にした比叡山の僧兵たちは反発し、道元がいる建仁寺を攻め込もうとしていました。それを聞いた道元は山城国深草の安養院に身を寄せ、しばらく京での布教をあきらめ、先人たちの教えを学ぶこととなりました。
 寛喜三年に道元は「弁道話」一巻を著し、これは道元の主著で「正法眼蔵」の序に相当するもので、この「弁道話」と「普勧坐禅儀」が道元禅の事実上の開宗宣言といえるものでした。道元は只管打坐の修行を実践するために深草に坐禅道場(興聖寺)を建て、興聖寺には道元を慕う人々が集まり僧団が形成されていきました。
 道元は「正法眼蔵」の執筆を続ける一方、他にも「典座教訓」「出家授戒作法」などを著していました。さらに道元は「護国正法義」を書き上げ朝廷に提出し、「禅によって国は発展する」という内容であったためそれを知った比叡山の僧は立腹し反論を朝廷に奏上しました。朝廷は道元の主張を一蹴したことにより、道元は興聖寺を弟子に譲り越前の志比庄に移る事となりました。
 道元は吉峰寺を道場とし、出家した修行者だけによる共同体が生まれ、修行者は道元の理想とする厳しく純粋な修行に打ち込みました。
 宝治元年(1247年)に禅の教えを広げるために、時の執権者である北条時頼に会うため鎌倉に向かいました。時頼は道元に帰依し熱心に禅を学びました。しかし鎌倉武士たちの信仰は加持祈祷や密教がほとんどであり道元が目指した禅による教化は理解されませんでした。これ以上の布教が難しいと判断した道元は鎌倉滞在を八ヶ月で切り上げ越前の永平寺に戻り、少数精鋭の理想を掲げ弟子の育成に力を注ぎました。
 建長五年(1253年)道元は病に侵され、道元はお釈迦様の最後の説法にならって「八大人覚」という教えを説きました。その後病状が悪化し、五十四歳でその生涯に幕を閉じました。 
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