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第十回コラム「空海の生涯について」

2019/02/19

密教の第一人者である空海について

第十回コラム「空海の生涯について」 前回コラムで最澄の生涯について書きましたが、今回は最澄とも関わり深い空海の生涯について説明していきたいと思います。

1 模索する空海
2 遣唐使としての時代
3 日本への帰国・高野山開創とその後

 1 模索する空海
 空海は宝亀五年(七百七十四年)讃岐国多度群の豪族の子として生まれ、父は佐伯値田公、母は阿刀氏の出で幼名は真魚と名付けられました。空海は叔父の阿刀大足(のちに桓武天皇の皇子、伊予親王の教育者になった儒家であった人物)から教育を受け、空海が十五歳の時に大学への進学を目指し上京することになりました。上京後も勉学に励み、十八歳の時に大学に入学しましたが、大学は能力よりも身分が幅を利かすところであったため、地方の豪族の出身の空海は官僚になるために血の滲むような儒学の勉強をしました。勉学の範囲は儒学に限らず仏教にも及んでいた空海は、出世のためだけに儒学を勉強することに疑問を持ち、ついには大学を辞め出家することを決意します。
 空海は四国で修行する中、久米寺で「大日経」という密教の教えの経典を読み修行しました。しかしこの経典には真言や印の結び方などが秘密にされており、どうしてもわからない部分がありました。そこで空海は密教をもっと知りたいと考え、唐の言葉を覚え勉強するために、唐で修行した僧がいる奈良の大安寺に行き修行を行いました。
 このころ空海は三教指帰(さんごうしいき)という書物を書きました。この書物は儒教・道教・仏教の三つの教えを比較して仏教が一番優れた教えであることを明かしたもので、空海自身が「自分は仏教の道を進む!」と世間に向けて宣言した宣言書でもありました。

 2 遣唐使としての時代
 延暦二十三年(八百四年)肥前松浦群田浦から四隻の遣唐使船が出航しました。その第一船には遣唐大使の藤原葛野麻呂の一行とともに一人の留学生が乗っていました。その人物こそが三十一歳になった空海で、もう一人橘逸勢(のちに空海と嵯峨天皇とともに書道の三筆の一人に数えられた人物)が唐を目指しました。第二船には名僧と言われていた最澄が乗船していました。日本を出航した船団は嵐にあうとすぐバラバラになり、四隻のうち最澄が乗る第二船は民州の港に到着し、空海が乗る第一船は赤岸鎮という小さな港に漂着しました。無事に唐に渡れたのは最澄と空海の二船だけでした。
 空海が漂着した港ではもともと遣唐使船がくる港ではなかったため、海賊か密輸業者と間違われ入国することができませんでしたが、文筆が達者で唐の言葉を操れた空海が長官宛に文書を提出すると、格調高い文章であったことから誤解が解け入国を許されました。
 空海が長安に入ったのはすでに日本を出てから半年近くが経過してからでした。長安に入ってからは二人の天竺(インド)僧がいる醴泉寺へ修行に行きました。空海の目的はなんといっても「大日経」を理解して密教の奥義を受けることでした。そのために密教の生まれた天竺の言葉である梵語(サンスクリット語)や思想を知る必要がありました。空海は般若三蔵と牟尼室利三蔵の二人からそれを熱心に学び、そこでバラモン教の哲学である梵我一如という考え方を知りました。”梵とは大宇宙の原理で我は小宇宙(個人)の原理で梵と我は究極的に一致し大宇宙の原理と合一するときに解脱できる”ということを知った空海はこれが密教の核心だと理解することになりました。
 その後、密教の第一人者の恵果の灌頂を受けます。灌頂とは密教への入門や秘法を伝授するときに行われる重要な儀式で、空海は胎蔵界の灌頂と金剛界の灌頂をそれぞれ受けることになります。この二つは入門式であり、灌頂の時は曼荼羅に向かって花を投げ落とします。曼荼羅に花を投げるのは各自の念持仏を決めるためで、花が落ちたところのほとけ・菩薩がその人の守り本尊となります。空海の投げた花は二度の灌頂とも大日如来の上にピタリと落ちたと言われています。こうして空海は恵果の弟子となりましたが、修行は恵果が修法のテクニックを教え、空海がその思想的な意味をづけを明かしていくという形で行われました。他人から見れば、どちらが師でどちらが弟子かわからないようでしたが、恵果も空海もそんなことお構いなしで互いに教え合っていました。法華経には唯仏与仏といった言葉あり、「ただほとけとほとけと」といった意味で”ほとけとほとけ”が向き合っている姿こそが仏教の究極のあり方であると考えられており、二人はまさに”ほとけとほとけ”が語り合った境地であったのです。空海は阿闍梨(師匠のこと)の位を継ぐための最高位の灌頂である伝法灌頂を受け、恵果の門を叩いてからわずか二ヶ月というものすごいスピードで密教の法を学びました。
 大同元年(八百六年)に遣唐大使の高階真人の船に乗り空海は唐を後にしました。

 3 日本への帰国・高野山開創とその後
 日本へ帰国した空海は新しい帝の嵯峨天皇に呼ばれ、薬子の乱などで国が乱れ人々の不安や動揺を鎮めるために鎮護国家のを祈願し、これによって仏教界から注目を集めます。この功績により空海は乙訓寺を任せられそこで密教を広げることになります。
 弘仁三年(八百十二年)最澄が空海を訪ね、密教を学ぶために灌頂を受けることになります。(※詳しくは前回のコラムを参照ください。)
 弘仁七年(八百十六年)真言密教の霊場を作りたいと嵯峨天皇に進言し、紀州の高野山の地に真言密教の専門道場を作ります。当初高野山は官寺ではなかったのでその造営費用は一般からの寄進によって支えられ、都から遠く離れた山上での壮大な伽藍造営は空海の並々ならぬ意志と、それに共鳴した信者の存在なくしては進みませんでした。独自の構想による伽藍計画は壮大で空海が存命中に完成したのは僧坊・講堂・多宝堂ぐらいでした。
 弘仁四年(八百二十三年)に帝から東寺を預けられ、東寺を唐の皇帝の帰依を受けた師である恵果に習い青竜寺の様式に整え、唐より持ち帰った経典・仏像・法具などをここに納めました。また空海は東寺を根本道場とし、真言宗の僧のみが居住を許される寺としました。当時寺には一寺一宗の慣習はなく、これが初めてのことでした。
 さらに空海は東寺の近くに庶民教育の学校である綜芸種智院を開き、ここでは仏教に限らず儒教・道教・陰陽道・法律・医学・工学・音楽などあらゆる学芸が教授された視野の広い総合人間づくりを目指しました。また貧しい学生が安心して学問に打ち込めるようにと生活費は全て給費され、総合教育と完全給費制こそが空海の教育理念とされました。
 天長九年(八百三十二年)官職を辞して高野山に居を移すと、空海は「万灯万華絵」を行いました。「万灯万華絵」とは無数の灯明と花でほとけを供養する儀式で、空海は自身が入定する時には「五十六億七千万年後、衆生を救うと言われる弥勒菩薩とともに必ずやこの世に降りてくる。」と誓いを立てました。
 貞和二年(八百三十五年)に弥勒菩薩の名号を唱える声に包まれ空海は六十二歳で入定。
 空海は庶民に尽くし庶民に親しまれた僧で、もしも空海がこの世に現れなかったら日本仏教はそれ以後、千二百年の歴史を刻むエネルギー持つことはできなかったでしょう。
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